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荘内日報ニュース


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2009年(平成21年) 10月21日(水)付け紙面より

庄内浜のあば 悲哀と快活と歴史と ―29―

混雑緩和で時差乗車も

湯野浜電車が開通

 羽越本線鶴岡駅開業から10年後の1929(昭和4)年12月、湯野浜―鶴岡間の庄内交通湯野浜線の電車が開通した。あばたちにとって、待ち望んでいたことだった。

 浜で揚がり、その日のうちに売りに来る魚は「日通(ひどお)し」と呼ばれて値段も高かった。だからあばたちは40キロもの魚が入ったかごを担いで、夜も明け切らぬうちから加茂坂などを越えて街へと走った。

 明治から昭和20年代の庄内浜ではイワシの豊漁が続いた。開湯900年記念誌『湯野浜の歴史』は、イワシ漁のことを古老からの聞き書きで、「8人乗りの手こぎ船で昼に出漁。夕方から午後9時過ぎまで流し網漁をし、船が沈むほどのイワシを積んで午前0時ごろ帰港。浜で網からイワシを外し終えると、あばたちは夜が明けないうちに鶴岡に売りに行った」と記している。

 湯野浜電車は、重い荷を背負って遠距離を走った重労働から、あばたちを解放した。

4等車案を提案

 戦時色が濃くなった37(昭和12)年5月、あばたちの列車利用が問題になった。鶴岡駅実施のサービス向上週間の中で、あばの乗車の整理整頓ができないかとした要望が一般から寄せられたためだ。専用列車だけでは足りず、一般車両に乗り込むあばたちのマナーへの“注文”だった。

 意見について、「鶴岡日報」は、「嫌われた彼女等に『四等車』」、の見出しで報じている。それは、「浜のあばの人数が多く臭気を発する衣服を身に着けて魚かごを車中に持ち込んでは、ほかの乗客に迷惑を掛けている。この際、古い3等車両を改造して『4等車』を製作してはどうか」との意見だった。

 提案の4等車とは、3等車のいす席を取り除いてはどうかというものだった。4等車は実現しなかったようだが、鶴岡駅の乗降客の混雑緩和対策として、三瀬駅―越後寒川(新潟県)間から殺到する行商・便利屋の定期利用を調整するため、行商と便利屋の利用列車を区別する対策を講じている。今風に言えば時間差通勤だった。

半世紀の歴史に幕

 鶴岡市由良の芳賀キエさん(81)は、2009(平成21)年3月で行商を辞めたが、戦後の行商では50―60キロの荷物を背負って列車に乗った。現在のようにステンレスや発泡スチロール容器はなく、魚櫃(ゆびつ)と呼ばれる木箱では当然のように魚のつゆが漏れた。「黙って乗っているならともかく、列車内で荷を広げて取り引きを始めるから、魚臭さは車内に広がって床はだらだら。慣れている私たちは平気だったが、一般の人、特に時々晴れ着の乗客がいると気の毒になった」と昔を振り返る。

 乗客への迷惑は十分過ぎるほど分かっている。しかし車内で取り引きしないと街での商売ができなかった。それでも、生きるためとあってどうしようもないことだった。

 一時代を築いたあば列車だが、旧国鉄再建合理化計画で85(昭和60)年3月、鼠ケ関午前5時14分始発の一番列車が廃止された。このころ鼠ケ関―酒田間で約100人のあばが、朝一番の「あば列車」を利用していた。

(論説委員・粕谷昭二)

旧湯野浜温泉駅で発車を待つ電車。開通は魚を担いで山越えするあばの苦労を和らげた(昭和50年3月写す。後方は望海楼)(左) あばの乗車制限や4等車提案を伝える昭和10年前後の新聞
旧湯野浜温泉駅で発車を待つ電車。開通は魚を担いで山越えするあばの苦労を和らげた(昭和50年3月写す。後方は望海楼)(左) あばの乗車制限や4等車提案を伝える昭和10年前後の新聞



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