2010年(平成22年) 1月14日(木)付紙面より
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樺太ではお嬢さん暮らし
一家挙げて樺太へ
鶴岡市由良漁港近くで鮮魚店を営みながら、地元だけで行商を続けている佐藤倉子さん(79)が、母のおじを頼って樺太(サハリン)に渡ったのは7歳の時。父母、次兄、妹との5人で、出稼ぎというより移住だった。この時、6歳年上の長兄だけを由良の親類に預けたという。一家挙げて出掛けることから、もしもの出来事を心配し、跡継ぎとして残したのだと思うと、佐藤さんは話す。
庄内浜から北海道や樺太への出稼ぎが始まったのは、明治中ごろからと言われ、「川崎船」(7トン前後で、動力は帆と櫓(ろ))と呼ばれる船で出掛けた。1930(昭和5)年当時、庄内浜からの出稼ぎ者約1200人中、小波渡、堅苔沢、三瀬、由良からの出稼ぎ者は約760人もいて、その約1割の出稼ぎ先が樺太だった。3月から12月ころまでニシン、タラ、イカ漁に従事したが、ニシン景気が沸くにつれて出稼ぎから家族を連れての移住が増えるようになった。
深夜にニシン拾い
樺太に渡って2、3年はつらい生活が続いたが、それもニシン景気に救われた。「浜さ行ぐど、卵(カズノコ)をいっぱい持ったニシンが打ち上げられていで…。浜に寄ったニシンを拾い、食べるのも売るのも自由だった。拾い集めて山のように積み上げられたニシンを妹と2人で見張り番してたもんだ」と、佐藤さんは話す。
ニシンが浜に打ち寄せられるのは午前2時か3時ごろ。見張り番の後は、眠い目をこすりながら、一斗缶にひもを付けて背負い、家の作業場まで何度も運んだ。
父親がニシンの加工業を始めると、暮らし向きは一変した。周りには「ニシン御殿」がいっぱい建つ中で、佐藤さんは「私の家はそこまでいかなかったども、お嬢さん暮らしができた」と、それなりに裕福な暮らしができたという。
樺太では真岡に近い野田という町に住んだ。由良や庄内からの出稼ぎ者、所帯を持って定住している者も大勢いた。片道約2時間かけて女学校に列車通学したが、2年生の時は下宿した。戦局が厳しくなると、宗谷海峡を挟んで北海道・稚内が見える町で勤労奉仕に明け暮れた。畑仕事をし、カニの加工場での仕事だった。
勉強が好きで、夢は薬剤師になること。「戦争がなかったらもう少し勉強を続けていられたのに……」と、戦争で夢を断ち切られたとの思いは、今も残っている。
夜逃げのように
終戦間際には、学校で手旗信号も習った。もう勉強どころではなかった。真岡にいて、ソ連の軍艦から激しい艦砲射撃を受けたこともある。「内地と離れていたこともあり、戦争が終わったことを知ったのは、少し遅れて8月17日ごろだったと思う」と、佐藤さんは記憶をたどる。
佐藤さんにとって恵まれた暮らしは、終戦によってどん底の生活へと180度の反転だった。家財道具は一切持ち出せず、貴重品を持っただけの着の身着のまま、リュックサックひとつ背負って、それこそ夜逃げするように樺太を去った。
佐藤さんの行商は、由良に戻ってからじきに始まった。
(論説委員・粕谷昭二)
2010年(平成22年) 1月14日(木)付紙面より
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スケート靴の代わりに長靴を履いて氷上を走り回る「長靴アイスホッケー大会」(鶴岡市アイスホッケー協会主催)が12日、鶴岡市の小真木原スケート場で開幕した。
長靴アイスホッケーは1978年、冬期間の運動不足解消のため北海道釧路町で誕生。現在は東北各地や関東圏などにも広がり、全国大会も開催されている。鶴岡では冬期間のレクリエーションスポーツとして、1990年に大会が始まった。
20回目の今大会には鶴岡市内の職場や友人同士で結成した9チームが出場。来月23日までの日程で全チーム総当たりのリーグ戦を繰り広げる。選手が履くのは滑り止めのない長靴で、パックの代わりにテニスボール大のゴムボールを使用する。
この日は開幕戦を含め3試合が行われた。時折小雨がぱらついたもののリンクは比較的走りやすく、まずまずのコンディション。防寒具を着込んだ選手たちはボールを追い掛けてリンクを走り回り、スティックをぶつけ合い激しい音を響かせた。中には勢いがついて止まれず派手に転倒する姿も見られた。
応援に訪れた観客は見事な連係プレーと得点シーンには大きな拍手を送り、ショットを外して氷上を転がる姿には大きな笑い声を上げていた。
2010年(平成22年) 1月14日(木)付紙面より
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鶴岡市の致道博物館(酒井忠久館長)にある多層民家・旧渋谷家(国指定重要文化財)で13日、昔ながらの害虫駆除作業「いぶり出し」が始まった。
いぶり出しは、かやぶき民家などで昔から行われてきた。いろりにまきをくべて屋内に煙を充満させ、かやぶき屋根に潜む虫を退治し、すすで柱や縄を丈夫にすることが目的。
1822(文政5)年に旧朝日村田麦俣に建てられた旧渋谷家は、1965(昭和40)年に同博物館に移築されて以後、いろりに火を入れることがなくなったため、同博物館が毎年行っており、冬から春にかけての風物詩となっている。
初日のこの日は午前9時半すぎに火入れ。「御前(おまえ)」と呼ばれる茶の間でアルバイトの女性2人がいろりを囲み、敷地内の樹木を剪定(せんてい)した際に出た枝などをまきにして、半日くべ続けた。
女性たちは「初めは煙くてきついが次第に慣れてくる。毎年、この作業を楽しみにして足を運んでくれる方もいて退屈しない」と話していた。
いぶり出しは3月中旬まで毎日続けられる。