2017年(平成29年) 1月13日(金)付紙面より
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農学部で担当している『森林生態学』という講義では、本論と関係なさそうな話から始めることにしています。例えば『ノアの箱舟』の伝説。堕落した人類を洪水で一掃すると決めた神が、善良なノアだけは箱舟で逃がした話です。洪水から7日後、ノアは舟から一匹の鳩を飛ばしますが、とまる所がなくて戻ってきます。次の7日後に再び放すと、今度はオリーブの枝をくわえて戻ってきました。さらに7日後、鳩はついに帰ってこなかったので、完全に水が引けたと悟ったノアは地上に復帰します。さて、これからどんな講義が始まるのでしょうか?
タネの生態学です。種子の中には、不適な環境では発芽せずに何年も眠り続けるものがあります。かつて、2000年前の遺跡から見つかったハスのタネを播いたら発芽したという記事が話題になりました。数年前には、シベリアのツンドラに3万年間も埋もれていたナデシコのタネが生きていたと報道されました。身近な木々のなかにも、数十年くらいなら当たり前に眠るものがあります。日沿道の建設でできた更地にタラノキやアカメガシワが芽生えてきたのを見ました。周囲に親木はないので、ずいぶん前から土中で眠っていた種子が発芽したのでしょう。私たちの足下には何年もかけてたまった種子がたくさん眠っているのです。そのなかには、地上ではすでに絶滅したか、絶滅しそうな種類のタネが含まれていることもあります。そこで、自然界の土をプランターに播いてこれらを復活させる試みが各地で始まっています。まさに、タネの箱舟。関東のある湿地では、それこそ「箱舟計画」という名のもと、植生の復活を学校の生徒に委ねるという取り組みが実施されています。子供たちが頑張ると、もれなく親も手伝うので活動の輪が広がるそうです。
箱舟で始める講義にはさらにその先があります。土中の種子は、いつ、何をきっかけに発芽するのでしょう?先のタラノキやアカメガシワの芽生えは暗い場所では生きていけません。だから、上で植生が茂っている間は芽生えるべきでないことを種子は感じているのです。逆に、その植生が何かのきっかけで更地になったなら、即座に芽生えないと、他のライバルに先を越されて千載一遇のチャンスを逃します。だから、種子は眠っているように見えて常に外の気配を感知しているのです。箱舟から出るタイミングを教えた鳩のように、タネのセンサーが光や温度の変化を的確に捉えて芽生えるべきタイミングを知らせています。
もっとも、この講義スタイルも次第に危うくなってきています。そもそも箱舟伝説を知らない若者が増えているからです。元ネタを知らなければ、たとえ話は威力がない。別の講義で登場する八岐大蛇(やまたのおろち)も、知っていると回答した新入生は(まんが『ドラえもん』で読んだと答えた人も含めて)もはや3割です。自然の消滅と同じ速度で文化も失われている。タネだけじゃなく、(噺の)ネタの箱舟も造らねば…。
(元山形大学農学部教授 専門はブナ林をはじめとする生態学。筆者は昨年3月に急逝されました。原稿は生前に寄稿していただいていたものです)