2019年(平成31年) 4月2日(火)付紙面より
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戊辰戦争で庄内藩が降伏を決めた時期について、「前藩主・酒井忠発の裁決で、1868年9月16日に決定した」とする通説に対し、官軍へ正式に降伏を申し入れた前日の同25日の時点でも藩内部において降伏か防戦かの激論が交わされていたことを示す史料が見つかった。鶴岡市郷土資料館で5月12日まで開催中の「庄内の戊辰戦争展・後期」で詳しく紹介している。
いずれも参謀本部ともいうべき役職だった庄内藩士、白井吉郎から山岸嘉右衛門へ宛てられた書簡を、郷土資料館が整理して分かった。
庄内藩は、16日に決定した降伏の藩議をもって、米沢藩を通じて23日、官軍参謀の黒田清隆に対し謝罪降伏の嘆願書を提出。黒田から提示された兵器の提出や開城などの降伏条件を受けてその後26日、官軍が滞陣していた古口に中老ら使者を派遣して正式に降伏を申し入れている。
書簡では、これまで開催事実のみが伝わっていた23日から25日の間に数回開かれた城内会議の内容について言及。16日に藩論を固めたにもかかわらず、重臣たちが再び激論を交わした様子を伝える。白井は「降伏、防戦とも判断が難しい」「まとまりなく亡国になったら嘆きに堪えない。せめて快く死ぬことができればと激しく憤っている」などと山岸に心中を吐露。また、「激徒を鎮めることもできない」などとも記し、謝罪降伏の条件に反対する藩内の一派の存在も示唆している。
展示の解説では、鬼玄蕃こと酒井吉之丞の二番大隊や、四番大隊が22日になってようやく戦地から鶴岡に戻っていることから、「激徒とはそうした重臣だったのではないか」と推測、「書簡からは最後まで予断を許さない状況だったことが伝わってくる」としている。
展示ではこのほか、庄内藩に最新鋭の兵器をもたらしたプロイセンの武器商人、エドワルド・スネルが鶴岡城に登城した際の言動として、「新政府軍の進軍を止めるための他国による軍事的関与が予定されている」などとほのめかした新史料も紹介する。
こうした新発見は、個人から寄託されるなどした史料の整理で判明。スネルの新史料は一昨年に寄託、白井の書簡は10年ほど前から所蔵と、整理に着手するまでは時間を経ている。郷土資料館の今野章専門員によると、「恒常的に史料の読み込みが追い付かない状況だが、所蔵史料であればいつかは着手して、今回のような発見にもつなげることができる」と話した。