2019年(平成31年) 4月2日(火)付紙面より
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政府は1日、「平成」に代わる新元号を「令和(れいわ)」と閣議決定し、発表した。天皇退位に伴う改元は憲政史上初で、新元号が皇位継承に先立ち事前発表されるのも初めて。有識者懇談会や全閣僚会議などを経て、菅義偉官房長官が午前11時40分ごろ、典拠となる「万葉集」の梅花の歌の序文とともに示し、発表した。安倍晋三首相は記者会見で「一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本である願いを込め、決定した」と述べた。改元は皇太子さまが新天皇に即位される5月1日午前0時に行われる。
1日午前11時40分ごろからの記者会見で、菅官房長官は平成の改元時を踏まえて、墨書された「令和」の額を掲げて新元号を発表した。新元号の典拠については現存する日本最古の歌集「万葉集」の梅花の歌32首の歌の序文にある「初春の令月(れいげつ)にして気淑(きよ)く風和(かぜやわ)ぎ梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き蘭は珮後(はいご)の香を薫らす」を示した。最終的な候補の原案については、他の案や数などについての公表はなかった。
安倍首相はその後の談話で、「『令和』には人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育つという意味が込められている。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、日本の国柄をしっかりと次の世代に引き継いでいく。厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともに、それぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本である願いを込めた」と新元号の意義や国民へのメッセージを述べた。
政府は1日午前9時半から元号に関する有識者懇談会を首相官邸で開き、ノーベル医学生理学賞受賞者の山中伸弥京都大教授、直木賞作家の林真理子さんら9人が出席。新元号の原案を提示し、意見を求めた。続いて菅官房長官が衆院議長公邸を訪れ、衆参両正副議長から意見聴取。その後、官邸での全閣僚会議で協議し、臨時閣議で新元号を定める政令を決定した。
新元号の候補の考案者は国文学、漢文学、日本史学、東洋史学の4分野の学者から3月14日付で委嘱。645年の「大化」から「平成」までの元号は確認できる限り全て中国の古典を由来にしてきたが、248番目となる「令和」は日本の古典から初めて出典された。
2019年(平成31年) 4月2日(火)付紙面より
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戊辰戦争で庄内藩が降伏を決めた時期について、「前藩主・酒井忠発の裁決で、1868年9月16日に決定した」とする通説に対し、官軍へ正式に降伏を申し入れた前日の同25日の時点でも藩内部において降伏か防戦かの激論が交わされていたことを示す史料が見つかった。鶴岡市郷土資料館で5月12日まで開催中の「庄内の戊辰戦争展・後期」で詳しく紹介している。
いずれも参謀本部ともいうべき役職だった庄内藩士、白井吉郎から山岸嘉右衛門へ宛てられた書簡を、郷土資料館が整理して分かった。
庄内藩は、16日に決定した降伏の藩議をもって、米沢藩を通じて23日、官軍参謀の黒田清隆に対し謝罪降伏の嘆願書を提出。黒田から提示された兵器の提出や開城などの降伏条件を受けてその後26日、官軍が滞陣していた古口に中老ら使者を派遣して正式に降伏を申し入れている。
書簡では、これまで開催事実のみが伝わっていた23日から25日の間に数回開かれた城内会議の内容について言及。16日に藩論を固めたにもかかわらず、重臣たちが再び激論を交わした様子を伝える。白井は「降伏、防戦とも判断が難しい」「まとまりなく亡国になったら嘆きに堪えない。せめて快く死ぬことができればと激しく憤っている」などと山岸に心中を吐露。また、「激徒を鎮めることもできない」などとも記し、謝罪降伏の条件に反対する藩内の一派の存在も示唆している。
展示の解説では、鬼玄蕃こと酒井吉之丞の二番大隊や、四番大隊が22日になってようやく戦地から鶴岡に戻っていることから、「激徒とはそうした重臣だったのではないか」と推測、「書簡からは最後まで予断を許さない状況だったことが伝わってくる」としている。
展示ではこのほか、庄内藩に最新鋭の兵器をもたらしたプロイセンの武器商人、エドワルド・スネルが鶴岡城に登城した際の言動として、「新政府軍の進軍を止めるための他国による軍事的関与が予定されている」などとほのめかした新史料も紹介する。
こうした新発見は、個人から寄託されるなどした史料の整理で判明。スネルの新史料は一昨年に寄託、白井の書簡は10年ほど前から所蔵と、整理に着手するまでは時間を経ている。郷土資料館の今野章専門員によると、「恒常的に史料の読み込みが追い付かない状況だが、所蔵史料であればいつかは着手して、今回のような発見にもつなげることができる」と話した。