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郷土の先人・先覚142 南極大陸に命をかけて

土屋友治(明治11-昭和6年)

土屋友治氏の写真

鶴岡市加茂に、平成元年に新築された4階建ての県立加茂水産高校がある。瀟洒(しょうしゃ)な外壁タイル張り校舎の中央前庭に、頭身大の見事なカイゼルひげをたくわえた偉丈夫の胸像がある。

「白瀬南極探検隊員・土屋友治君之像」の題字は、昭和31年の第1次南極地域観測隊長・永田武氏の書である。この胸像は34年11月3日の文化の日、尾形六郎兵エ顕彰会会長らによって旧水族館前に建てられ、新校舎と共に現在地に移転された。

明治11年、西田川郡加茂村、漁業・土屋与助の三男として生まれ育った友治少年は、夢を海上に求めた。当時の加茂は天然の港湾として、日本郵船の西回り航路の寄港地でもあり、湾内には汽船が停泊し、はしけが出入りしてにぎわい、刺激を受けもしたであろう。

水夫時代から刻苦勉励して海技資格の取得に挑み、遂に甲種二等運転士となり、東洋汽船の外国航路にも高級船員として勤務した。その時期の明治43年、人生を変える快挙に出合うのである。

秋田県由利郡金浦出身の白瀬矗(のぶ)後備役陸軍中尉が、未知の大陸南極探検を2年がかりで計画していた。大隈重信伯爵が後援会長となり、各新聞を通して隊員を募集した。当初は陸上隊員9名、海上隊員18名。船は東郷平八郎海軍大将が命名した204トンの汽帆船「開南丸」。

厳選された隊員の中に、二等運転士として32歳の土屋友治があった。南極大陸に挑む幹部隊員として、人生をかけたのである。同年11月28日、開南丸は芝浦桟橋を離れた。途中寄港する横浜まで、後援会関係者、新聞記者にまじって、船長、機関長の夫人とともに、土屋二等運転士の妻・豊恵さんの姿が船内にあった。

シドニーを経由して南極圏に入った開南丸は、想像を絶する悪条件にはばまれ接岸延期を余儀なくされ、反転してシドニー港に寄港した。6カ月をかけた船体補強後に、第二次探検隊が編成され、一等運転士の辞任に伴い土屋二等運転士が一等運転士に昇格して、航海長の重責を担った。

第二次探検隊は、氷海の航行と雪原への上陸に成功した。南緯80度5分の地点に進んだ白瀬隊は、ここを「大和雪原」と命名して標識を埋めた。海上隊員の土屋航海長も二度にわたってリーダーとして沿岸湾内の観測を実施。そのひとつに「大隈湾」と名付けて記録に残した。

明治という日本の夜明けの時代に、不屈の開拓精神と男のロマンが脈打つ探検隊の開南丸は、1年7カ月ぶりに国民歓呼のうちに芝浦岸壁に帰った。204トンという観測船としては小さい船を操作して南極の海に挑んだ土屋一等運転士は、その任務を見事に果たしたのである。

後年、横浜の日本海事協会に迎えられ、海事思想の普及と海運従事者の育成に努め、慈父のように慕われながら、53歳で病没した。

(筆者・米村 光雄 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

土屋 友治(つちや・ともじ)

明治11年5月22日、西田川郡加茂村(現・鶴岡市加茂)で生まれた。海運界に志をたて、甲種二等運転士の海技資格を得て、士官として外国航路に勤務。明治43年11月、白瀬南極探検隊に参加、航海長として任務を果たした。後年、日本海事協会の職員として海運の発展に尽くし、昭和6年1月18日53歳で病没した。

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