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郷土の先人・先覚155 川柳通じて社会に貢献

新田見柳(明治45-昭和40年)

新田見柳氏の写真

寺院が大きな棟がわらを並べている酒田市旧寺町通りの西端に、浄土真宗本願寺派の大信寺が建っている。この寺は南朝、新田義貞の第3子、義宗の5代孫に当たる浄泉坊了玄(俗名・新田宗忠)の開基、7世道粋(どうすい)、11世慈純(じじゅん=耕月)はともに碩学(せきがく)の僧として名を成している。

檀家には中世から近世にかけて36人衆といわれ酒田町組の町政に尽力して功績のあった家が多く名を連ねている名刹である。

新田見柳は明治45年(1912)3月、熊本市の在家に生まれている。長じて宗教家を志し、本願寺派中央仏教学院で学び、伝導院を出て本山の布教使を勤めた。大信寺の14世で本名・憲龍(けんりゅう)は川柳のペンネームである。

戦後、川柳人口が増え、多くの人たちが川柳に親しみ、また作句活動をしているが、その中で、宗教家が川柳作家として活躍した例も珍しい。

昭和27年、酒田に「だろう会」(古川柳研究会)が発足。その後、同会のメンバーに加わり、川柳の道に入った。やがて「だろう会」が、「酒田川柳会」に発展し、作句を始めた。その中で彼の句はうがち、滑稽、風刺の効いた作品が多く、これも物事を的確に捉えて作句する努力と天分が、川柳家として名を成している。

ところで関西に本拠を置き、名の通った「番傘川柳社」の柳誌に投句を続けているうち、主幹の岸本水府の目にとまり、その力量を認められ同人に推挙されている。

次に数多い作品の中からほんのわずかを述べてみる。

 ◇文楽の至芸あやつる目に涙

 ◇一筆を願う碩の向きをかえ

 ◇名作という仏像の鼻が欠け

 ◇家計簿を守る素顔が美しい

 ◇読経の咳へうしろもつりこまれ

読経の句などは僧侶として実感の句であろう。

ペンネームの見柳は、酒田川柳会の指導者であった荒木星の名付けであり、性格も九州男児らしく、作句態度や作品にもよく表れていた。

宗教活動では毎年大信寺を会場にして竜谷大学の教授を招き、一般を対象にして夏期講座を開講、真宗の教えを説き、社会の教化に役立たせている。他に仏教婦人会、唯信会(ゆいしんかい)などの会を持ち活動しており、また民生委員として長い間社会のために尽くしている。

寺院管理では明治27(1894)年の庄内大地震で倒壊した、同寺の再建に情熱を傾けたが、諸般の事情で成し得なかったことは心残りであったことだろう。

没年は昭和40年12月、57歳であった。檀家であり、同じ川柳仲間である根上新内は、

 ◇南朝の武将新田の裔(えい)を悼う

の弔句を仏前に捧げている。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

新田 見柳 (にった・けんりゅう)

僧侶。明治45年3月熊本市生まれ。宗教家を志して本願寺派中央仏教学院に学び、伝導院を出、本山の布教使を勤めた。その後、酒田市の大信寺14世住職。毎年、竜谷大学から教授を招いて一般を対象にした講座を開設。仏教婦人会なども組織。また民生委員をつとめ、長年、宗教、社会福祉活動に貢献した。川柳に親しみ、見柳はペンネーム。本名は憲龍。昭和40年12月、57歳で亡くなった。

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