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郷土の先人・先覚184 洋風建築の傑作を次々と

高橋兼吉(弘化2-明治27年)

高橋兼吉氏の写真

名棟梁・高橋兼吉は、文明開化の幕開けの時、新しい建築の異様さに関心を示し、いち早くその建築の何たるかについて模索を続けていた。時を同じくして欧化主義の計画を進めていた三島県令との出会いが彼を勇気づけ、これまでの建築、古来の木割法や、規矩(きく)の世界に自由とも見られた洋風の意匠の導入を行い、開港場に始まった洋風建築をこの地方にまでレール上に乗せた功績は中央の建築家以上に重要であろう。

彼は弘化2(1845)年、鶴岡の大工町(現・鶴岡市陽光町周辺)に大工・高橋半右エ門の二男として生まれ、明治3年ごろ22歳で上京。牛込津久戸前の請負師・佐野友治郎の門を叩き、洋風建築を学んだといわれている。鶴岡に帰郷後の明治8年、羽黒町松ケ岡蚕室4棟を建て、同9年荘内神社の社殿を造営、そのころ同じ町内に住む棟梁・小林清右エ門の跡を受け、酒井家お抱えの棟梁となった。

同9年ごろは三島県令の命を受け、鹿児島より鶴岡に来た技術者、職人など大勢で朝暘学校の建設中で、この仕事には彼は従事してしないが、井岡寺にある寿碑により推察される。この時にはすぐ前の荘内神社の現場におり、洋建築に少しは経験のあった彼としては耐え難いものがあっただろう。

その後、明治12年に旧清川学校を建て、模索しながら同14年旧西田川郡役所を竣工。同15年には兼吉得意の規矩を駆使して湯田川の由豆佐売神社を建て、続いて常念寺観音堂を竣工させた。兼吉が洋建築の集大成である旧鶴岡警察署を同17年に落成。そして鶴岡警察署大山分署を完成したのである。その後、旧東田川郡役所、旧西田川郡会議事堂、西田川郡医事講究所、大山尋常高等小学校、鶴岡役場など数多くの洋風建築を手掛け、故あって善宝寺五重塔を完成させた。現在の山居倉庫である酒田米穀取引所倉庫を明治27年に完成させた後、間もなく50年の生涯を閉じたのである。

その作品はいずれも見ても、明治14年に完成した小品下清水の深山神社を筆頭に和風建築が主であり、そして模索しつつ洋風建築を開花させたのが旧西田川郡役所である。和風の意匠を洋風に融合させ、完成したのが旧鶴岡警察署で、この地方の洋風建築の最高傑作ということができよう。

兼吉は地方への洋風建築の開拓を担いレールを敷いたが、晩年にはなぜか和風建築に戻った点が不思議である。

(筆者・大沢 力 氏/1989年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

高橋 兼吉(たかはし・かねきち)

棟梁。弘化2(1845)年12月22日、鶴岡の代々大工をしている家に生まれた。大工を志し、東京で洋風建築を学んだといわれ、明治8年松ケ岡の蚕室を設計して施工。腕前が高く評価され、酒井家のお抱えの棟梁に選ばれた。旧西田川郡役所、旧清川学校、旧鶴岡警察署、同署大山分署、旧東田川郡役所、旧西田川郡会議事堂などの洋風建築だけでなく、荘内神社の社殿、湯田川の由豆佐売神社、善宝寺の五重塔など寺社建築も手掛け、庄内を代表する建築家と称された。関係した建造物は今でも数多く残っている。明治27年7月5日、50歳で亡くなった。

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