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郷土の先人・先覚41

伊藤吉之助

伊藤吉之助氏の写真

哲学者・伊藤吉之助は、明治18(1885)年1月4日、父・惣太郎、母・美代の長男として、酒田市日吉町に生まれた。生家は雑貨卸商であった。

彼は荘内中学、一高を卒業後、東京帝国大学哲学科に入学し、42(1909)年に卒業した。卒業論文は「カントを中心とした空間論」であり、この頃から抱き続けたドイツ哲学への憧憬と研究心が、そのまま彼のライフワークへの源となっていた。

東大には「庄内の哲学三羽烏」といわれた阿部次郎と宮本和吉がおり、親交を深めていた。

彼は東大哲学科の副手を勤めながら、大正4(1915)年仙台藩士族の出である高橋てると結婚したが妻への最初の注文の1つが貧乏に耐えてほしいということであった。その手始めは、新婚旅行の費用が、すべて本代に変わったことである。

大正9年から2年間、慶応大学派遣留学生として、ドイツのベルリン大学、ハンブルク大学などで学び、マールブルク派(新カント学派)のロゴス(概念、理法、論理)追求の学問を身につけて帰国した。慶大教授や東大助教授を歴任した後、昭和5年5月、東大教授になった。

この年、三木清をはじめとする、日本の識者を結集して執筆された名著「哲学小事典」の主任編者となった。この頃から彼は日本の哲学界における第一人者としての地位を占めるようになり、日本哲学会の会長に推された。

昭和10年、恩師の桑木厳翼(くわきげんよく)が東大を退官したあと、代わって彼が哲学科主任教授となった。彼のゼミの特色は、一時間一時間が真剣勝負そのものであり、彼のロゴス追求の姿勢は、学生間に厳しい先生という印象を与えた。

彼は思想の矛盾や行き詰まり(アポリア)を鋭く指摘し、真理や存在そのものは、認識したり語り得ないものであるという立場をとった。このため、彼の著述は極端に少なく、彼自身博士号をとっていない。しかしながら、彼は長い間、博士論文の審査に携わってきたのである。

昭和20(1945)年、彼は東大を退官したが、翌21年北海道大学法文学部設立準備委員に任命され人材並びに資金獲得に奔走することになった。

日和山公園に建立された歌碑の

秋くれば いてはの空は 雲おもく くろつむ海の 浪高ならす

は、北海道からの帰路、酒田の亀ケ崎にある母の実家阿部家に立ち寄ったときに揮毫したものである。

彼は北大法文学部長、同文学部長を歴任した後、26年に退官し、新たに中央大学教授に迎えられ、30年に同大学文学部長に就任した。昭和30年9月、北大80周年記念式典に参列した後、石狩河畔で詠んだ句が

雲あわく 石狩平野 とんぼとぶ

であった。
 彼は、政治的には時流におもねることもなく、左右どちらの勢力にも加担しなかった。

彼は世界平和について、「人間は中間的存在であり、カントのような理念としての永久平和はともかくとして、現実の平和は、人間性が含んでいる両方向の緊張の均衡の上に築くより外はないであろう」と述べている。

晩年の彼は脳軟化症で倒れ、念願であった「哲学史の歴史」執筆もついにかなわず、36年7月7日、76歳で永逝した。勲二等受章。「浄徳院殿哲誉三学博道居士」。菩提寺は酒田市の善導寺である。

主な著書と論文に「哲学小事典」「最近の独逸哲学」「カントとマールブルク学派」「世界観と科学」「根源的現実」「世界平和」など。

(筆者・土岐田 正勝 氏/1988年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 吉之助(いとう・きちのすけ)

哲学者。東京帝大を卒業して哲学会雑誌の編集に従事。大正6年慶応義塾大予科教授、11年に同大文学部教授になり、母校の東京帝大講師を兼務。その間にドイツに留学した。 昭和5年に東京帝大教授、哲学研究室主任に、22年に北海道大教授に移った。この年、周囲の反対を押し切って作家・武田泰淳を中国文学科の助教授に起用した逸話がある。26年に中央大へ移り、33年まで勤務。退職3年後に死去した。

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