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「荘内」と「庄内」

寒河江市の千代寿とらや酒造は5年前、幻の酒造好適米「豊国」で作った純米大吟醸『寒河江(さがえ)の荘(しょう)』を発売した。以来、毎年好評を博している。豊国とは、明治期に余目町京島の桧山幸吉翁が、江戸時代の品種「文六」の変わり物から育成。大正末期に県内で1万ヘクタールを超えて作付けされた大品種。同社の杜氏が後にも先にも豊国で醸造した銘酒の味が忘れられず、県農試から種籾(もみ)を少量分けてもらい増殖。念願の醸造を果たした。

『寒河江の荘』のネーミングは、平安期後期から戦国期にかけて村山盆地の北西部、現寒河江市・西村山郡が、関白藤原忠実の荘園だったことにちなんだ、と同社社長で県酒造組合連合会長を務める、大沼保義さんはいう。ところが、同じ「さがえのしょう」でも「しょう」の字が文献によって異なっている。『角川日本地名辞典・山形県』には「荘」で出てくるが、平凡社『山形県の地名?日本歴史地名大系』には、「庄」としている。

これと同じケースが、「荘内」と「庄内」である。「庄内地方とは、『庄内』が本当か、『荘内』が本当か」、「荘内は『そうない』で、『しょうない』とは読まないのでは」などの問い合わせが、本社に月2、3回は必ず寄せられる。その都度、郷土史研究家・堀司朗さんが昭和60年発行の『柊』(本の会)に発表したエッセイ「≪荘・庄≫内談義」をコピーして送ることにしている。

それによると、庄内という地名が通用するようになったのは、荘園の1つ大泉荘の地頭に任命された武藤氏の天正年間とみられ、庄内の地名の初見は天正10(1582)年。庄内藩士・小寺信正が享保年代(1715?1724年)にまとめた『荘内物語』にある「庄内は大泉荘の内たることに由来する」のが、一応定説としている。

古文書に書かれているのは、圧倒的に「庄」が多く、「荘」はわずかに見られる程度、という。書名(外題)には荘内を使っても本文には庄内を使うケースもあった。堀さんは、最近の例では、庄内地方・庄内平野のように汎地域名を表す場合は庄が使われているが、団体や企業名では荘がかなり多く使われている。荘内神社、荘内病院、荘内銀行、荘内日報社などがそれである。

NTTの五十音別電話番号簿で拾うと、酒田市で庄内を頭にしている団体・企業・役所は約90。中に庄内支庁建設部、庄内経済連、庄内空港、庄内みどり農協など。荘内は約50。その中で代表番号を持つのは、庄内が約30、荘内が約25。一方、鶴岡市での庄内は約80。中に庄内交通、庄内医療生協など。荘内が約50。その中で代表番号を持つのが、庄内は約40、荘内が約20。

「荘」を「そう」と読むのは漢字本来の読み方の漢音。「しょう」は呉音だが一般に使い、荘園は「しょうえん」が正しい。荘内を「そうない」としか読まないとするのは誤り。

(平成10年11月10日付本紙『一日一題』より)

東北地方

宮城県石巻市で発行されている「石巻日日新聞」が10月1日、大正元年の創刊以来85周年を迎える。「志を同じくする東北各地のローカル新聞社」の一員として、同日付で発行する特集号に掲載するというメッセージのご依頼があった。「庄内」の紹介を盛り込みながら次のような拙稿をお送りした。

山形県庄内(しょうない)地方は、北に秀峰・鳥海山(2236m)、南に霊峰・月山(1984m)、そして西に日本海の地に、城下町・鶴岡市と港都・酒田市を核とする14市町村で構成される。

「『荘内』と『庄内』のどちらが正しいの」。転勤族や観光で訪れた県外の人たちに、よく尋ねられる。「荘(庄)園の内」という戦国期からみえる領地のくくり方の歴史があり、古文書にはどちらの表記もある。

以前は、そうした歴史をはしょって説明したりもしたが、江戸時代に当地を治めた旧庄内藩主酒井家の第17代当主・酒井忠明さんから「どちらでもいいんですョ」と伺った後は、それに沿っている。「酒井さんが『どちらでも』とおっしゃっていますから、同義語です。お好きな方を使っては」と。

いささか無責任のようだが、多くの方は納得する。廃藩置県後も酒井家の歴代当主が当地に暮らし、ある種の心の支えになっている歴史の重みも、併せて感じてもらえるようだ。

鶴岡市高坂に生まれ育った「時代小説の名手」藤沢周平さんは、その舞台として架空の「海坂(うなさか)藩」をしばしば登場させている。生前、「そっくりそのままではないが、城下町の中を流れる川を挟み、西側にお城と武家屋敷があり、東に町人街が展開する構図は、まさしく鶴岡をイメージしたもの」と、鶴岡城下を中心にした庄内の原風景が強く投影されていることを認めていた。

今年1月26日深夜、藤沢さんの訃(ふ)の知らせを受け、同じく鶴岡出身の丸谷才一さんに哀悼のコメントをお願いした。

≪方面の違う小説家でしたが、文章もよく、作風もおもしろく、愛読していました。文体も、小説それ自体も、人柄も大好きでした。亡くなられたと聞いて大変悲しく思っています≫

まさに「方面の違う」お2人なのだが、庄内の風土がはぐくんだ「共通項」があるように感じる。

明治維新後、「薩・長・土・肥」の出身者が日本の舵(かじ)取りを占めてきた、という指摘がある。しかし、平成の今、時の国政の要(かなめ)に、与野党を問わず、東北出身者が実に多く座る。

生臭いそんな世界を考え合わせても、東北の風土には、その時代その時代が求めているヒトを育てる高い地力(ちりょく)があるのではないか、と思える。そうした地力をさらに高めるため、丁寧に耕し高質の元肥を施すのは、地方紙の役目だと思う。

同じく東北の地に生きる石巻日日新聞のさらなる発展をご祈念申し上げる。

(平成9年9月27日付本紙『一日一題』より)

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