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郷土の先人・先覚102 医事・衛生 思想の啓蒙者

門山周智(嘉永2-明治43年)

門山周智は、嘉永2(1849)年3月25日、松山藩士門山周信の六男として松山町(現・酒田市)に生まれた。門山家は、代々松山藩の典医をつとめていた。その後、彼は長兄門山周政の養子となって跡を継いだ。

明治3(1870)年10月、松嶺藩権少属、翌4年1月には横目役とつとめ、同年5月に兵部省土地図誌編集掛となった。

明治7(1874)年、26歳のとき上京し、緒方洪庵(おがたこうあん=オランダ医学を修めて大坂に蘭学塾適塾を開いた)の次子維準に師事して、内科及び眼科学を修め、同8年松嶺に開業した。

門山周智は明治10年、飽海郡大区長・山岡昌伸に、「郡医業者の公会を開いて医事百般の規約を制定しなければ、医学の拡張をなることはできない」と陳述し、同志たちと開業医による研修会を設けた。そしてこのことは8年後松嶺に創設される医学講究所「淳華堂(じゅんかどう)」となって実を結んだ。

同25(1882)年8月、山形県下に発生したコレラは、当地方でも猛威をふるい、同年11月までに飽海郡内で319人が死亡した。この惨状を目撃した門山周智は、コレラなど伝染病の予防・消毒に当たっては、住民による一致協力が必要であることを力説し、開業医や町村組合衛生委員による「連合私立衛生会」を発足させ、彼がその議長に就任した。

連合私立衛生会は、

  1. 衛生上に関する布達・布告の実践方法
  2. 流行諸病発生時の予防や消毒の手続きと方法
  3. 町村に関する衛生の利害得失

などについて協議をした。また、流行病・伝染病・中毒患者・風土病・飲料水の変状・衛生上に関する奇異な事変などについて連携通信を行うことにした。

また、連合私立衛生会主催による演説会と討論会がしばしば開かれ、衛生思想の普及につとめた。たとえば明治16年7月9日、松嶺町文八桜を会場にして開催された時の討論テーマは「酒糟を臭気止めとして便所に用いるの可否」「戸口の便所を改良せしむるの難易」についてであった。なお、同会主催による衛生思想普及のための演説会と討論会のテーマとしては、「泰西(西欧)と我が日本の服装、いずれかが勝れるか」「飲用水撰用法」「眼疾予防論」「梅毒予防法」「我が地方産褥の弊害」「娼家を数カ所に設くるの可否」「本邦の建築と洋風の建築いずれかが勝れるか」「空気換用論」「コレラ弊害論」「小児の疾病を論ず」などがあった。

飽海郡医であった門山周智は、明治24年6月『飽海郡衛生誌』208ページを著したが、これには近世末期から近代初頭にかけての飽海地方の医事や、自然・社会事象を知る上での貴重な記録が収められている。同年、彼自ら東京帝国大学の模範薬局を視察し、医学講究所充実のためにその成果を反映させた。

門山周智は松嶺町会議員として活躍するとともに、明治維新の際、官有林として接収されていた総光寺寺有山林50町歩余の回復のために奔走しており、現座観光資源となっている“眺海の森”誕生の土台を作った人物であるといってよい。

彼は史学・考古学・漢詩文においてもその非凡さを発揮した。

門山周智は、明治43(1910)年5月7日、62歳で没した。

(筆者・土岐田 正勝 氏/1988年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

門山 周智 (かどやま・しゅうち)

医師。嘉永2年3月25日、松山町松嶺に生まれた。上京して内科学と眼科学を修め、明治9年帰郷して松嶺に開業。地域医療の発展に貢献するとともに近村の医師に呼びかけて医業講習所を開設した。町会議員をつとめ地方自治の振興に活躍し、史学、考古学も研究。「飽海郡衛生史」の著書がある。また、漢詩文を得意にしていたので、各地の碑銘に名が残っている。明治43年5月7日62歳で死去。

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