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郷土の先人・先覚106 歌人、随筆家 「黄鶏」を主宰

斎藤勇(明治37-昭和62年)

斎藤勇氏の写真

斎藤勇は地主の家に父・順太、母・鉄代の8人兄弟の4番目の子として生まれた。少年時代から父、兄の蔵書に親しみ、庄内中学に入学した頃は文学に心を寄せていた。家庭内の不調和もその心を募らせたらしく加藤磯吉発行の「葡萄園」に短歌を寄せ、さらに自ら「密欒」なる同人誌を出し、短歌などを載せている。

法政大学入学後、法政短歌会を作り飯田莫哀のすすめで「覇王樹」に入社し、橋田東声に師事し、没後臼井大翼に従った。

卒業後、木村捨録の下で「日本短歌」(現「短歌研究」)の編集に当たった。その後、北原白秋の紹介で台湾に渡り、中学校などの教師の傍ら、歌誌「台湾」を創刊した。

敗戦後帰郷し教師となり、「台湾」を「黄鶏」と改題し主宰した。途中8年間の休刊があったが順調に発展してきた。

斎藤勇は自ら間歌泉と称し、作歌をほとんど中止した事が13年、極めて歌数の少ない時も相当期間あったが、短歌を離れることはなかった。その間、批評、研究、翻訳、編集に携わり自らの美学の裾野を広げていった。斎藤勇の文学を見る目は古今東西の詩、小説に及び、短歌も評論、随筆もそれらとの接点の中にポエジーを形成させることとなった。評論、随筆は世の絶賛をあびた。短歌も晩年知的な花を大きく咲かせ、勇短歌の世界を展開した。

渡台以来温藉(おんしゃ)平明で、技巧的、感傷的は覇王樹調を洗い落とす営が続けられ、戦後も引き継がれ、現実に身を寄せて、現実につこうとする歩美であり「秋生秋日」「家霊」などの作品はその頂点を形成した。一方、歌心湧くや斎藤勇の詩想は古今東西の詩歌の間を駆け巡り、豊かな知性のしたたるところ、「幻想流氷群」「海の裳裾」の歌となった。斎藤勇の代表作をあげる。

冬来れば母川回帰の本能に目覚めて愛し鮭のぼりくる
屈葬の形にひたる据風呂の火は奏で出づ遠野木枯海の裳裾わけて
始めて陸を見し者らの眼にそら蒼かりき

著書に随筆集「見えざる人」、「雪女」、「マタイ博士の業績」。編者に正続「支那事変歌集」、歌集に「母川回帰」がある。

校歌の作詞も多く酒田工業高校をはじめ11校におよんでいる。

(筆者・池田 龍一 氏/1988年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 勇 (さいとう・いさむ)

歌人、随筆家。南遊佐小学校高等科より庄内中学を経て法政大学に学ぶ。卒業後、総合雑誌「日本短歌」の編集に当たった。その後、台湾へ渡り中学校、師範学校の教師となり、歌誌「台湾」を発行する。敗戦後、故郷に帰り、酒田商業高等学校に勤務し、酒田北高等学校、遊佐高等学校、酒田商業高等学校の校長をつとめ、退職後、酒田女子高等学校に勤務した。かたわら、帰郷後に「台湾」を「黄鶏」と改題し、発行主宰した。享年84歳

※黄鶏のけいの字は題字が本来のものです。

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