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郷土の先人・先覚109 庄内川崎衆の先覚者 北海道内有数の漁業家に

青山嘉左衛門(天保7-大正5年)

北海道の鰊(ニシン)は、江戸時代松前藩の主財源であり、また北前船交易品として、鮭(サケ)、昆布と並ぶ重要産物の1つである。

明治の世となり、北海道開拓使により鰊漁業制度の改革がなされた。この時、志を立て望みを北海の鰊に属し、困苦勉励ついに一大漁業家として成功する雄邁なる1人の成年が庄内の一漁村に出現する。

羽後国飽海郡青塚村(現・遊佐町)に天保7年9月、父・青山嘉左衛門、母・清の4男3女の6子として生まれる。名は留吉。父は漁業を営み、母は魚を酒田に商い、わずかに口を糊す。留吉はよく父母を助けた。18歳で由利郡塩越村の須田仁右衛門の養子になり、農漁に従うが、22歳の時、辞して生家に戻る。

安政6年留吉が23歳で屹然として北海道に渡る。後志(しりべし)国高島郡祝津(しゅくつ)村で、寺田九兵衛の漁師となり精励、鰊漁業の利を察する。翌年4月田中某の漁場を借り受け、刺し網漁を営む。

以来、北海の怒涛を踏破し、困窮に屈せず、自ら魚を小樽に運んで販売し、冬は山に入り、木を切り出す作業に従事するなどさまざまな苦難に耐えた。慶応4年共同で「漁場地」を借用、翌年200坪ばかりを所有、定住の根拠とした。

明治の制度改革により移住、土着が自由になると祝津に移住。時に明治6年。以来50年勤倹力行、幾多の辛苦に屈せず、鰊定置網を経営する。また一家の協力一致により事業隆盛となり富力を増す。時は鰊100万石(75万トン)時代。日本海春鰊の全盛ピークに一致するという時運に恵まれた好運児であった。

行成網から角網への漁具漁法の改良発達、鰊の需要増大、年々豊漁が続き、本業の鰊、鱈漁のほか、仕込みにも関係し資力を増した。

同30年後志国、石狩国各郡下に15カ所の建網を経営。漁船百数十隻、漁民400余名を使役し、その富は巨万に達し道内有数の大漁業家の地位を築いた。今も豪壮な青山家番屋が保存され、郡来鰊で戦場のようににぎわった浜の風景や網起こし、沖揚げ歌を偲ばせる記念建築である。

青山翁の壮挙は庄内漁民の範として、続々と鰊鱈出稼ぎ渡航を促し、庄内川崎衆の名を高め、県内の水揚げを超す出稼所得をあげた。

山形県漁業誌によれば、明治30年出稼漁船254隻、漁民2000余人とある。

同41年漁場を一族に委譲して帰郷、西遊佐村税の8割を納め、役場、学校などみな青山家の出資援助で建てたという。現地で政吉がよく父の意を解して経営を誤らず、大漁業家の門地をまっとうし、地元では女婿・米吉が西遊佐村長を勤め公共に尽くす。翁は150町歩の大地主として酒田市出町に閉居。大正5年4月80歳で死去した。

(筆者・西長 秀雄 氏/1988年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

青山 嘉左衛門 (あおやま・かざえもん)

天保7年9月飽海郡青塚村の青山嘉左衛門の第6子として生まれる。名は留吉。安政6年正月23歳で屹然として志を立てて北海道に渡り、高島郡祝津村の寺田九兵衛の漁師となる。以来50年幾多の困苦に屈せず、鰊場経営に当たり事業隆盛。明治、大正と北海道各地で建網5カ所漁船百数十隻、漁民400余民を使役しその富巨万に達する道内有数の漁業家となる。北海道の鰊・鱈出稼漁業移民の鏑矢として、庄内川崎衆の先覚者。明治41年漁場を一族の青山政吉に譲り帰郷。150町歩の大地主として酒田市出町に閉居。大正5年4月80歳で死去した。

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