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郷土の先人・先覚111 酒田の教育の基礎築く

山内成善(天保1-明治7年)

鵜渡川原村(現・酒田市)出身の山内成善は、江戸時代から明治初期にかけて、酒田の教育に大きく貢献している。

山内家は代々成就院と称し、神明宮の別当職を勤めていた。神明宮は元和8年に川北3奉行の寺内近江、斎藤筑後、高橋伊賀が伊勢より酒田の片町に勧請したもので、享保13(1728)年には新井田御蔵の防火のため、片町から鵜渡川原の立町に移転させられ、明治に入ってから豊受神社と改称している。

神明宮別当成就院の先祖である日光院は、天正16(1588)年に東禅寺城主本庄繁長によって、越後から酒田に呼ばれ、東禅寺城内にあった八幡宮の別当になっている。その後、成就院は片町に移り、さらに新井田御蔵の防火のため、神明宮移転前の享保11年に立町の神明宮隣屋敷に移転している。

朝日村注連寺の鉄門海上人が、寛政8(1796)年にこの修験成就院に5日間泊まり、ここで小児麻疹(はしか)の守礼を出し、その礼金で、大鳥村(現・鶴岡市)の貧しい子供たちに、手習い用のすずりを買い与えているが、成就院も手習いの子供と無関係ではなく、成就院自身が寺子屋を開いていた。この寺子屋は当地域における最初のものとされている。

山内成善は、安政4(1857)年に27歳で山内家12代目を相続。成就院賢全と称し、神明宮別当を初めとする諸職を受け継いでいる。慶応4(1868)年の戊辰戦争時には、寺社奉行服部十郎の下で浄福寺や大浜で砲術稽古も行っている。明治2年4月の神仏習合廃止により、神社の社人に復職し、成就院賢善の名を山内注連之助成善に改めている。

成善は詩文をよくし、書にも長じていた。そこで自宅に多くの子弟を集め、「亀城道場」の額を掲げ、教育に情熱を燃やした。

教育者としての成善の活躍は、明治以降も続き、明治7年に酒田県では、学制に基づき公立学校を酒田に設置するに当たり、成善宅に鵜川学校を創立しておりその教師に成善等2名を任命。就学児童は男64名、女8名であった。鵜川学校は、その後の亀城小学校の母体ともなっている。

成善は社人としては、当地の豊受太神宮、亀ケ崎八幡太神社をはじめとして、横代村熊野太神社、東野新田村八幡太神社、宮野浦村日枝太神社、十里塚村美和太神社、浜中村琴平太神社に奉仕している。

成善没後、成善の遺徳を慕う多くの門人とその子弟によって、大正12年豊受神社境内に謝恩碑が建立された。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

山内 成善 (やまうち・せいぜん)

天保元年、11世成就院賢道の一子として、鵜渡川原立町に生まれる。神官で教育者。温厚な性格であったという。死の直前、自己の死をさとり、嗣子の弘雄を病床の枕辺に呼び、「御維新となり、旧記旧例を適用すべき世にあらず」とし、古い記録が消失していく事を嘆き、記憶している事を全て聞かせたいと語っている。亀ケ崎八幡宮御大祭終了の翌日、明治7年8月16日に死去した。

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