文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚112 近代の傑僧

菊池秀言(安政2-昭和19年)

菊池秀言氏の写真

秀言は安政2年、北村山郡東根町礼徳寺住職・遠藤示弁の長子として生まれた。15歳から寒河江市隠の門に入り漢字を習い、翌年には漢詩100首を作るという秀才ぶりを示した。21歳で上京し大谷派教師教校に学び、23歳で北京に留学、翌年酒田の浄福寺の養嗣子となった。

明治13年、26歳の時、再び留学。北京3大書家の魯琪光から、「亀崎山」の山号を書いてもらう。14年に帰朝すると本山に対し、中国へ日本仏教布教のため、条約改正の中に日本仏教宣伝の項目を入れるよう建議し、ついで岩倉具視、外務卿・井上馨などに働きかけたが朝鮮に暴動が起こり実現しなかった。一青年僧が国際条約による仏教布教を発想したことは珍しく、学界からも注目された。

同年、病没前の福沢諭吉翁から会見を求められ、病床の翁から2時間にわたって宗教の重要性を説かれ、口には真宗の教義を説きながら、心には確固たる安心がないことに冷や汗をかいて懺悔した。このことは秀言にとって画期的なできごとだった。

同15年からは本山に上り宗政に参加し、30年に宗務をやめて酒田に帰り寺務に尽くした。 27年の震災で倒れた本堂の再建に32年からかかり、34年11月に落成をみた。本間家が費用の7割を負担し、あとの3割を総檀徒や他の信徒から募った。

同44年には今町に酒田慈善授産会を設立し、その会長となった。大正3年には授産会内に浴場を設け慈善風呂といった。同9年には住宅を建設し、じきょう舎と名付けた。「天行健、君子もって自らつとめて善をなしてやまず」の意である。費用の大半は大ダンナの本間家から出ていた。同11年酒田報恵会と改称し、同14年には託児所を設置している。酒田市における福祉事業の先駆者といえよう。

漢詩、和歌、書の名手として知られ、総理大臣になった清浦圭吾は常に漢詩の添削を願っていたし、酒田には秀言の書いたものが多く遺されている。

秀言の文才は長男公導と三女リウに伝えられ、公導は「曲馬団に売られた娘」などの小説を書いている。また日曜学校を開いたり、報恵会内の児童に日曜訓育をするなど児童教育に尽くした。特にリウは幼少のころから文学少女の評判が高く「女子文壇」に投稿してたびたび入選し、今井邦子、若山貴志子、生田花世らと並び称された。のち詩人・横瀬夜雨(やう)と文通してその才を認められ、「酒田の寺の三の君、出羽の人」と呼ばれた。

(筆者・須藤 良弘 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

菊池 秀言 (きくち・しゅうごん)

僧侶。安政2年8月15日生まれ。明治11年に24歳で酒田の浄福寺の養子、菊池姓を名乗り住職になった。中国に渡って北京で布教に従事。その後、東本願寺役僧を兼ねて酒田の仏教界を指導、尽力した。詩や書、和歌にも秀れていた。また酒田慈善授産会を設立して会長となり、のちの酒田報恵会長として酒田の福祉事業に貢献、藍綬褒章を受けた。昭和19年10月14日、90歳で死去した。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field