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郷土の先人・先覚113 地元屈指の農民歌人

上野甚作(明治19-昭和20年)

大正、昭和期の農民歌人としての上野甚作は、明治19年に鶴岡市南郊外の旧斎村外内島、上野甚右エ門の二男として出生。旧荘内中学校3年を修了し、同39年に弘前工兵隊に入営。その間、朝鮮の会寧府守備隊に入隊した。

除隊後26歳のとき、歌人・前田夕暮に師事し、「白日社」の会員となり、後に自然詩社の歌人・尾山篤二郎に師事して振興を結び、大正6年32歳のときに北原放二、上野甚作の3人の合著歌集『三枝草集』を出版した。この年、推されて斎村村会議員となり村林監をつとめ、農業の傍ら村政に参与する。

歌誌「島影」は、この年の4月3日に発刊し、鶴岡市周辺の同好の志にも呼びかけ、生涯これを主宰した。

37歳のとき第1歌集『耕人』を上梓し、中央歌壇にも農民歌人として当時は珍しさも加わってか、あまねくその名が知れわたった。昭和3年6月、43歳で斎村村長となり、以来4選継続し、同17年まで通算16年間奉職する。

村長としての上野甚作は先見の明と、優れた見識を持っており、同13年には「国民健康保険」の試案を作成して世の注目を集めた。また農家が米を売るのに同じ庄内米でありながら「国立山居倉庫」と鶴岡米穀取引所関係倉庫米の値の格差撤廃運動を展開し、5年間の運動の末、同13年7月にその実現を見た。

歌誌「島影」は流派に拘ることなく歌会はいつも質素。会場は同村の常福寺、大宝館などで、毎月のように催し、体躯堂々、童顔寡黙、つねに辺幅を飾らぬ甚作を囲んでの歌会であった。

当時は結城健三、医師で詩人の星川清躬、俳句の和田光利、金丸由吉、農の斎藤慎吾、遊佐の斎藤勇は大学生の夏休みの折、わざわざ歌会に出席することもあった。

また、上京のときは青山の斎藤茂吉、大森の橋田東声、印旛沼の吉植庄亮を訪問したときのみやげ話をその都度楽しくお聴きした。また中央より庄内に来た歌人文人の植松寿樹の鳥海山登山、尾山篤二郎の羽黒山への案内などはここが窓口の感さえあった。

昭和12年の日支事変は大東亜戦争に拡大し、満州開拓の国策は急を要し、全国で20万戸、庄内からは7200戸分を分郷する運動で、斎村、山添村、黄金村の3カ村合わせて200戸の「満州櫛引郷」の建設を計画。その団長は何としても「村長級」ということであった。

3カ村村長会議のとき上野甚作村長は、「誰彼というより俺が行くかのう」とその任を引き受けた。若いときの弘前工兵隊としての気概からとうに覚悟は決まっていたのであろう。

同18年3月31日に東部ソ連国境に近い三江省富錦県錦星地区に団長とし渡満する。翌19年8月には後続開拓者募集と、その建設資材確保陳情のため内地に帰った。その後、おそらく膨大であろう歌稿などのある満州にまた帰ったが、同20年8月13日、ソ連軍侵攻の銃弾によって死亡した。享年61歳。

(筆者・阿部 太一 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

上野 甚作 (うえの・じんさく)

歌人。明治19年7月12日、鶴岡市外内島に生まれた。農業の傍ら作歌活動を行い農村青年を啓蒙して大正6年、機関誌「島影」を発行。同11年に歌集『耕人』を出し、農民歌人として名をあげ、鶴岡を中心にした歌会を主宰して後進を指導。県歌人会の委員も務めた。昭和3年には43歳で旧斎村の村長に推され、同18年に開拓団団長として満州に渡った。同20年8月13日ソ連軍の侵攻に遭い死亡した。

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