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郷土の先人・先覚115 社会福祉法人思恩会の創立者。庄内砂丘地メロン先駆者

五十嵐喜広(明治5-昭和19年)

五十嵐喜広氏の写真

社会福祉法人思恩会の創立者・五十嵐喜広氏は、明治の社会事業草創のころの1人であり、また熱烈な基督者であり、また砂丘地の農事研究者として高く評価されて良いと思う。

五十嵐氏は明治5年5月20日、西田川郡湯野浜温泉のゑびすや旅館・五十嵐与右衛門の三男として出生。幼くして両親が亡くなったため、長兄・喜一郎夫妻によって育てられる。

明治21年、17歳のとき私立庄内中学校に入学し、初代校長・藤生金六氏に出会う。藤生氏は熱心な基督者であり、毎週1回の合同倫理講演を聞き、また隔週土曜日、校長の自宅に有志生徒が集まり、聖書講義を聴き、神の摂理に敬服し強い感銘を受けた。ある時、北越学館の松村介石氏が来校され講演をされたが、松村氏は基督者と博学、雄弁家であったので、深い感銘を受けた。

その後、松村氏の著書「立志の礎」「アブラハム・リンコルン伝」むさぼるように愛読した。その結果、北越学館に転学して、松村氏の学僕となって苦学する。2年後に脚気(かっけ)に罹り学館を中退して郷里に帰った。加茂尋常小学校の教員をしていたが、明治27年、23歳のときに再び上京し苦学する。この年の末、岐阜県飛騨国船津、古川両町にて基督教の伝道に従事する。同28年4月5日、飛騨船津町の路傍で富山県生まれの幼児1人を保護した。

5月20日、古川家の素封家・本田六三郎氏より家屋を無料貸与され、飛騨育児院を創立して7人の孤児を収容する。同年9月25日、岐阜県西濃地方大水害のために20余人の不遇児童を収容した。

この最初の年は資金や目算があったわけではないので、経営は惨憺たるものであった。翌年、場所を岐阜県に移転し、濃飛育児院としてからは、賛同者も増え、順調な歩みに入った。

このように社会事業を足を踏み入れたのは、基督教による隣人愛により愛の実践者になったからである。五十嵐氏の性格は、何事も積極的で快活で、開放的であり、何人に対しても城壁を設けず社交性に富んでいた。

そして外交的手腕があり、押しも強く、名士を訪問して説得し、揮毫を願ったり、寄附を貰ってきて世人を驚かした。また、事業好きでいろいろなことに手を出したが上手くいかなかったことも多かったようである。

五十嵐氏は我が国の社会立法の成立に貢献した。3回にわたる欧米視察によって、各国の社会事業を視察し、社会福祉施設を研究して帰国。これを県や各省に報告進言して、その立法化に努めた功績は大きい。

さらに忘れてはならないのは、七窪一帯の砂丘開発は五十嵐氏の創意と計画によるもので、県砂丘農業試験場が設立されたのも氏の主唱によるメロン研究会である。昭和19年7月死去。

(筆者・伊藤 謙吉 氏/1989年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

五十嵐 喜広 (いがらし・よしひろ)

社会事業家。明治5年5月20日、湯野浜温泉の生まれ。庄内中学当時に聴いた牧師・松村介石の講演に感動、松村の学僕となって苦労を重ね、キリスト教へ入信。病気で一時帰郷したが明治27年に上京、岐阜県で伝道活動。幼児を保護したのを契機に育児院を開設した。各地に育児院をつくり、鶴岡市七窪にも分院を開設。のちに独立して七窪思恵園、初代園長。また庄内砂丘地メロンの先駆者でもある。73歳で死去した。

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