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郷土の先人・先覚130 庄内の金工第一人者

桂野赤文(寛政1-明治8年)

ツバ、小道具など刀剣を飾る金具の彫刻。刀剣界に多くの関係者を排出している庄内は、彫金も盛んであった。“天下の名工”と江戸で名を馳せ、我が国刀装金工界の重鎮といわれた土屋安親(つちや・やすちか1670-1744)は鶴岡の生まれであり、桂野赤文(初代)は庄内の金工の第一人者で全国的にも知られた。

桂野の父も金工で、名前は桂雲軒。兄・光長(鷺州)、弟・忠吾(南山)とも金工で、まさに金工一家。金工になる素質は十分であり、環境にも恵まれていた。青年になってから金工を目指して江戸に上り、浜野某に師事した。技法を習得して遊洛斎(ゆうらくさい)赤文と号し、頭角を現した。

文政7(1824)年に荘内藩から召し抱えの声が掛かった。この時は他の藩からも要請されていたが、桂野は生まれ故郷に近い荘内藩を選んだ。

弘化2(1845)年に57歳で江戸を離れて鶴岡に移り、居を構えた。

動物の彫刻を得意とし、クマ、龍などあらゆる動物を彫刻するが、中でも明鳥、猛虎のツバは気力がみなぎり、躍動が感じられ、桂野の傑作とされている。また、ムカデやカマキリなど虫類の彫金も見事なものといわれている。

桂野家史によれば、桂野は髪をよく伸ばし、ひげをたくわえ、一見常人とは思われないような風貌であったという。名人気質で気が向けば一心不乱に製作するが、気が向かないと誰が頼んでも制作しなかったと伝えられている。

生活は楽ではなかったが、余り意に介せず、画家や同職の客が来れば招いてもてなし、国情を聞くのが楽しみ。また、金に困っている旅人に会えば宿料をやったり、衣類など分けてやるなど情の深い人のようであった。

酒もだいぶ愛したようで、庄内の金工を研究した長岡恒喜さんは「荘内金工之研究」に「彫金が終われば酒を飲み、気性はひょうかんらいらくの二字に尽きる」と評している。心の広い人だったのだろう。

桂野の偽物もかなり出たらしいが、一向に気にしなかったとされている。ときには偽物を持参して「銘を打ってくれ」と頼まれれば、亀田鵬斎流の書風で銘を切ってやっていた。「俺の作が分からぬ様な人は偽物を持つのが相応だ」と。  本来なら偽物が出回ると憤慨するのが普通だが桂野は平気で、偽作者は赤文銘がなくては売れないので、食わんがために頼むのだろうと、内情が分かる桂野としては断りきれなかったものと推測されている。

桂野の三傑の一つといわれる「猛虎と竹」などは国立博物館に収蔵された。二男の弥平太の金工を業として2代目赤文を継ぎ、その養子・赤則も3代目赤文を名乗った。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

桂野 赤文 (かつらの・せきぶん)

金工。本名・正蔵。寛政1年3月3日越後国村上の生まれ。金工家の二男。江戸で金属彫刻の技法を習得し、金工になり、号は遊洛斎(ゆうらくさい)赤文。文政7(1824)年荘内藩に召し抱えられ、弘化2(1845)年に鶴岡へ転居。新町で金工業を経営。ツバ、小道具をはじめ刀剣金具全般に及び、模様を高く浮き上がらせるように彫る高彫り据文の技法が得意。明治8年1月14日、87歳で亡くなった。

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