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郷土の先人・先覚139 荘内中学草創に活躍

伊藤克施(安政5-昭和8年)

県立鶴岡南高校の前身、荘内中学の草創期に教壇に立ち、校長の排斥運動があった際は、その収拾にあたるなど苦労を重ねた。

旧庄内藩士の長男として鶴岡に生まれた克施は、藩校・致道館に学んだ。明治初めの廃藩置県によって藩侯が廃校になったため、造詣の深い人に師事して漢学、珠算、数理などを学んだ。

明治10年12月、当時としては庄内地方の最高学府であった鶴岡変則中学に進学。しかし、眼病を患い退学する羽目になった。

だが向学の念は人一倍強く、退学後も独学で日本文法、西洋数理を習得し、同15年に西田川郡中学校(鶴岡変則中学が校名を改称)に勤務、教壇に立った。それもつかの間、19年には勅命により公費で支弁する中学は"一県一校"になり、同校が廃校になった。

そのころ、教育に対する関心が高かった庄内の人々は、「山形には県庁、師範学校その他多くの官公庁があるので、県立中学校を庄内に移してほしい」と県会に県立中学校の鶴岡移転、誘致を建議したが、叶えられなかった。克施は私塾「英学会」に勤めることになった。

「英学会」は、西田川郡中学校の校長を勤めた弘田正郎が、校務の余暇に英語を教えてした私塾。西田川郡中学校の廃校によって、当時英学会会長であった俣野景次が克施に謀って、地方の要望に応えるため英学会の規模を拡大し、旧中学校の校舎を借りて開設された。

英語のほか、漢文、数学を教えていたが、知識を求める子供たちが争って入学した。

年々盛況でこの様に中等学校を必要とする地域の強い要望から同21年7月1日に開校された「私立荘内中学校」創立につながった。同校の創立が今の鶴岡南高校の始まりである。

克施は私立荘内中学校の開校と同時に、英学会から同校の教諭となり、大正2年まで寄宿舎の舎監も兼ねて同校へ勤務した。その間の明治25年に校長の排斥運動が起きた。

同校の2代目校長に就任した俣野時中は国粋主義者で、兵式体操をはじめ、行軍や教練を実施。政治性もあって校舎の整備、設備を充実、実績を残したが、私生活の面で問題があったようで、職員生徒の信望を失い同盟休校による排斥運動に発展した。

このため俣野校長は同年辞職に追い込まれ、克施がその後1年半ほど校長心得となって活躍した。同44年には同窓会の謝恩会に招かれ、「母校草創時代の多難他事に寝食を忘れて奔走尽力した」として金一封と銀杯を贈られ、労をねぎらわれた。

克施のことは昭和13年発行の雑誌「荘内」にも「兄より聞いた伊藤克施先生の話」と題して2回に分けて紹介された。

その中に「趣味は読書、詩作、刀剣鑑定、書道、撃剣、珠算、釣り、鳥刺しなど極めて多い」半面、嫌いなものも碁、将棋などの勝負事、宴会、芝居…と多かったようだ。体は丈夫な方ではなかったが、14歳のころ泥棒を捕まえ、近所で相次いだ盗難事件を解決した手柄話も掲載されている。

(筆者・田村 寛三 氏/1989年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 克施 (いとう・よしはる)

教育者。安政5(1858)年2月5日、鶴岡生まれ。鶴岡変則中学中退。独学で日本文法や西洋数理を修め、西田川郡中学校、荘内中学校の先生を歴任し、同校校長心得を務めた。教育者として信望を集め、大正2年まで教師。昭和8年4月19日、76歳で死去した。

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