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郷土の先人・先覚153 サクランボの育ての親

本多成允(弘化4-大正6年)

本多成允氏の写真

サクランボの父として寒河江・西村山地方で、本多様と崇敬されている本多成允は、庄内藩士・本多十右衛門の子として鶴岡与力町に生まれ、元治2年正月に家督を相続した。幼いころより文武の道を藩校・致道館に学ぶ。慶応4年、藩分限帳に組頭・服部純蔵の組付、禄高100石。戊辰戦争のとき22歳で、家老・松平甚三郎の第一大隊に属し、村山寒河江、秋田・横手北征軍として各地に転戦した。

本多家の始祖は三河の人庄太夫光正で、酒井忠勝に召し抱えられ、司農(郡代)に抜擢された。禄500石番頭・組頭に進む。退職後の寛文3年、清水新田、平田郷笹山新田の開田開拓を行う。没後、清水新田地内に創建の本多神社に祭祀された。

光正と成允十数代、200年の隔たりがあるが、桜桃(サクランボ)育ての恩人と尊敬され、寒河江長岡山公園の「さくらんぼ日本一の碑」にその名を讃えられている。

成允は明治維新の大転換により家禄を失った。明治8年、養子・次一に家督を譲り隠居。このころ、酒田県官員として出仕、次いで山形県に転じ、西村山郡役所書記。一家をあげて寒河江に移住し、明治21年に西村山郡有志農談会副会長として郡立農産物試験場運営に当たる。明治30年、山形県勧業諮問会員委嘱、さらに寒河江町長に就任した。西村山郡立中学校(寒河江高校の前身)設立に尽力。町長退任後は郡立農産物試験場長に推され、勧農の道に努める。

桜桃が日本に入ったのは、明治初年に函館在住のドイツ人ガルトネルが近郊七飯村に試植したのが最初という。山形県では明治8年県庁の敷地内に3本植えたのが始まり。翌9年、10年、11年と三島県令が北海道開拓使や勧業寮からリンゴ、ナシ、桜桃などの西洋種を求めて、山形市香澄町桜小路や、県営千才園などに植栽し、土地に合うものは民間に配布した。

殖産興業に熱心だった内務卿・大久保利通の命でつくった三田育種場には、フランス、アメリカなどの諸国から新品種を輸入し、試験、範示、種苗交換を行った栽培奨励の時期であり、山形県でも明治18年ごろ桜桃の苗木を購入していると考えられる。成允は明治20年ごろより桜桃栽培を試み、自宅周辺で自費育成した苗木を農家に分け与えたり、食味させるなど啓蒙に努めた。当地方の気候条件が桜桃栽培の適地だったことなども重なり、長岡山周辺、寒河江川河畔地帯にサクランボ畑が広まり、今日の隆盛の先駆けとなった。

また、成允は歌人としても優れており、大正5年の宮中歌会始の勅題「寄国祝」(大正天皇御即位大典)に入選するなどした。大正6年、71歳で亡くなった。

(筆者・西長 秀雄 氏/1989年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

本多 成允 (ほんだ・せいいん)

弘化4年12月9日、鶴岡・与力町に庄内藩史・本多十右衛門の子として生まれ、藩校・致道館に学ぶ。元治2年正月に家督を継ぎ、家禄100石。戊辰戦争に秋田北征軍として転戦。維新後は官員となり、酒田県、次いで山形県に出仕。その後、西村山郡役所書記となり、郡有志農談会副会長、寒河江町長、山形県勧業諮問会員、郡立農産物試験場長などに就任。勧農の道を歩み、サクランボ育ての親として有名。歌人としても知られる。詠歌7000余首。大正6年3月9日に71歳で亡くなった。

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