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郷土の先人・先覚154 地域開発の陰の功労者

石川荘吉(明治34-昭和58年)

石川荘吉氏の写真

石川荘吉氏は、歌人・荘次郎を父とし、明治34年鶴岡市吉住町(現在の睦町付近)に生まれた。大正11年3月、東京高等工業学校を卒業すると、自分の卒業論文のテーマでもあった「魚油の燃料化」の実現を夢見て、商工省燃料研究所に入所したが、父・荘次郎は当時長い病床にふし、3人兄弟、5人姉妹の長男という立場にあった荘吉氏の青年時代は決して恵まれた環境ではなかった。

そのため、大正15年にはそうした家庭の事情により、志半ばにして郷里・鶴岡に呼び戻され、化学の教師として県立鶴岡高等女学校の教壇に立った。そして、庄内地区に多く産出する酸性白土は、油脂類の精製脱色剤として欠くことのできない原料であることから、この地域に埋蔵する酸性白土の機能特性を丹念に調査して、昭和8年、鶴岡市鳥居町に石川活性白土研究所を設立、企業化を実現した。

このことが当時、活性炭など吸着剤を取り扱っていた武田長兵衛商店関係者の知るところとなり、昭和12年、羽前水沢駅前に武田白土工業株式会社(現・水澤化学工業株式会社)の新会社設立に発展し、自ら初代工場長となった。

しかし、その後大東亜戦争が勃発。戦線拡大する中で、水沢工場は石油の精製剤を製造する軍需工場に指定され、その需要が高まるにつれ、優良な原土を産出する新潟県中条町にも昭和19年、新工場を建設した。中条工場は稼働間もなく終戦となり、同時に活性白土の需要が絶えたため全面閉鎖。水沢工場も人員縮小などして整理が一段落した時点で、自らも責任を取って会社を去った。

武田白土退社後は石川化学商会を経営する傍ら、地域産業における技術面での良き助言者として、自らの能力を提供したが、荘吉氏が地域開発に対する関心が非常に強かったのは、戦後の鶴岡市長であり、その後衆議院議員となった加藤精三氏と小学校時代からの同級生であり、終世盟友でもあったことによるところが大きいと思われる。従って、加藤精三氏亡きあとも父の遺志を継いだ加藤紘一代議士を支援して、地域開発への夢を託し続けた。

しかし、その生涯を通して見ても分かるように、荘吉氏は謙虚な人柄だっただけに、派手な立ち回りを好まず、常に人の陰にいて自分の役割を果たす人であった。

昭和58年1月、荘吉氏の葬儀の委員長を務めた加藤紘一氏は弔辞で、「先生は鶴岡市の教育委員を一度だけやられただけで、公職にはあまりつかれなかった方だったが、例え“バッジ”をつけず、また“長”という名はつかずとも正に人格と見識で市の人々を導いた真の社会の中のリーダーだった」と述べた。

葬儀には参列者が小雪舞う式場の外にまであふれ、人格と人望の人にふさわしい葬儀であった。享年81歳であった。

(筆者・坂 清治 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

石川 荘吉 (いしかわ・しょうきち)

石川活性白土研究所創設者。東京高等工業学校(現・東工大)卒業。商工省燃料研究所へ入所したが、数年後に帰郷して鶴岡高等女学校(現・鶴北高)の先生。その傍ら庄内地区の酸性白土を研究、企業化して石川活性白土研究所を設立した。その後、武田白土工業株式会社(現・水沢化学)を創立、初代工場長。戦後退社して石川化学商会を経営、地域開発に尽力。昭和58年、81歳で死去。

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