文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚156 シシャモの名付け親

疋田豊治(明治15-昭和49年)

疋田豊治氏の写真

北日本鰈(カレイ)類研究の第一人者。カレイの疋田として日本魚類学の基礎を確立した学者として知られている。シシャモの研究にも詳しく、その名付け親である。アイヌ語のススハモからススは柳、ハモは魚から柳葉魚と名付け、シシャモと呼んだ。学名オスメラス・ランセオラタス・ヒキタ。ギリシャ語で属名は"香り"、種名"槍"のような形から柳の葉ということに由来する(現在属名は変更されています)。子息で魚類学者・疋田豊彦博士からお聞きした命名の経緯である。

オショロガレイの名付け親でもある疋田豊治は、明治15年7月3日西田川郡日枝村の疋田太郎右エ門家に生まれる。荘内中学卒。東京理科大学臨時教員養成所卒業。京都、大分の中学校教師を経て、明治42年札幌の東北大学農科大学水産学科講師、助教授に迎えられ、以来60余年にわたる北方産魚類の研究者としての道が始まる。

明治、大正のころはカレイ類について研究が少なく、疋田は特に北の海のカレイ類の分類、生態、分布、保護の研究に精魂を傾けた。

熱中すると夜も昼もなく、研究室も家の区別もなく研究を続け、疲れるとオットセイの毛皮に包まってごろ寝した。夜中に目を覚ますとストーブを焚き、再び魚をみつめて朝に至ることもしばしばであった。その強靭な根気力は庄内人としての気質といえよう。

ホルマリン臭の強い魚のヒレやウロコを数えたり、骨、内臓組織を調べ、熊のような大きな手で器用に解剖し、美しいスケッチをした。得意の写真を撮り、骨格解体図版の労作を完成し、北日本産カレイ類の研究を昭和9年に発表。カレイの疋田として、魚類学界に名を馳せた。

郷土の庄内沖底魚の調査のため鶴岡市加茂の県水産試験場に数度来場、80歳の高齢にも関わらず、終日、研究室に閉じこもり黙然と微動もせず、魚に全力を集中する姿に、学者とはかくあるものかと皆驚嘆した。  また教育者としても独特の風格があり、学生に敬愛され、慕われ、学生連中と酒を飲み、奥様の三味線に合わせて十八番(おはこ)の江差追分をよく唄った。茫洋とした温かみがあり、また気さくで身なりを構わず人間丸出し、童心もあり、いうにいわれぬ味があった。

古希記念に先生ご夫妻の謝恩旅行が、同窓生有志によって日本全国1万2000キロ愛のリレー旅行-昭和26年9月から80日間、稚内から鹿児島まで-が行われた。敗戦後の荒廃期の世相下、師弟愛の明るいニュースと同時の話題となった。昭和36年に北海道文化賞を受賞、大日本水産会功労者として表彰。半生期にわたる魚類学を主軸とした研究と、教育に傾注した偉業と人徳は、今も斯界に残されている。

(筆者・西長 秀雄 氏/1989年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

疋田 豊治 (ひきた・とよじ)

明治15年7月3日、西田川郡日枝村(現・鶴岡市)、疋田太郎右エ門家に生まれる。荘内中学校、東京理科大学臨時教員養成所卒業。京都、大分県の中学校教諭を歴任、同42年東北帝国大学農科大学水産学科講師・助教授(札幌)、北海道大学付属水産専門部教授。昭和10年函館高等水産学校教授(函館)。同18年の定年退官後、札幌に帰り、北大農学部水産学科講師。28年学制改革による廃止まで勤め、半世紀に及ぶ北方魚類の研究に専念。カレイの疋田の評価を高め、北日本産カレイ類の研究は斯界の名誉。シシャモの名付け親であり、また教育者としても人間味豊かで教え子らに慕われ、古希のお祝いに同窓生招待日本一周愛のリレー旅行をする。北海道文化賞、大日本水産会より功労者表彰。昭和49年10月30日、92歳で亡くなった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field