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郷土の先人・先覚160 加茂坂改修した即身仏

鉄竜海(文政3-明治14年)

三山詣りに訪れていた秋田研の堀見内の人々が、湯殿山に向かう山道で、1人の行者から「○○ではないですか?」と声をかけられた。

この人たちは白い衣を身にまとった行者の一行が向こうからやってくるのを見つけ、その中に一段と風格のある、上人風の人がいるので、道をあけ、目礼していた。思いも寄らないところで突然声をかけられたので、声をかけられた当人はびっくり。ただ目を見張るばかりであった。

「オレ、甚兵ヱの勇蔵だ…」と行者は言ってニッコリ。よくよく見ると姿は変わっているものの、まぎれもなく甚兵ヱの長男。長年、行方知れずになっていたので、堀見内の人々は二度びっくりした。

この行者が鶴岡市砂田町の真言宗南岳寺に安置されている即身仏(ミイラ)「鉄竜海」である。

鉄竜海のことは本などに広く紹介されているが、話題の多い人である。

文政3(1820)年に秋田県仙北郡仙北町堀見内の生まれ。16歳のときに喧嘩して誤って友達を殺してしまった。地元にいたたまれなくなり村を飛び出し、流浪の旅を続けた。そのあげくに鶴岡に辿り着いた。

しかし、身を寄せるあてもないので、赤川に身を投げようとしたところ、天竜海という行者に救われた。

天竜海は藤島町大半田(現・鶴岡市藤島地区)生まれで、南岳寺の住職。鉄竜海は天竜海に弟子入りして、行者の世界に入ったといわれている。南岳寺は当時、湯殿山注連寺(現・鶴岡市朝日地区)の末寺。湯殿山行者、信者の修行所、祈祷所であり、いつも行者が8~9人は寄宿していたといわれている。

鉄竜海は修行を一途に励み、熱心さが高く評価され、鶴岡出身で注連寺に安置されている即身仏の鉄門海が建立したという盛岡市の連正寺に預けられ、同寺の発展に尽力することになった。

しかし、嘉永元(1848)年春、連正寺は近所から出火した火災で類焼。本堂、庫裡など全部が焼失してしまった。鉄竜海は連正寺の復興を図るために師匠や本山の注連寺に相談、信者の間を歓進して資金集めに努めた。

当時は不作続き。再建資金が思うように集まらないので、南岳寺に帰り、仙人沢で五穀を絶ち、木の実、若葉などを食べて過ごす木食(もくじき)行を決心した。

木食行は安政6(1859)年から文久2(1862)年と推定され、事情を知っていた信者たちがその間、相次いで参詣に訪れ、多くの金品を寄進した。

一千日修行を終えた鉄竜海はその金品を持って盛岡に出向き、連正寺を再建した。それから間もなく天竜海のあとを継いで南岳寺の住職になった。また鉄門海の遺志を継ぎ、通行が困難な加茂坂道路を信者の協力で改修する大事業を行った。

庄内は即身仏の宝庫。鉄竜海は現存しているものの中で最も新しいものとされ、生前から即身仏になることを志願して、南岳寺に石室を用意してあったと伝えられている。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

鉄竜海 (てつりゅうかい)

行者。秋田県の生まれ。鶴岡・南岳寺の住職、天竜海に弟子入り。修行して盛岡市にある連正寺の住職となる。その後、仙人沢で穀物を絶って木食行、火災に遭った連正寺の再建を図った。間もなく南岳寺に戻って住職。加茂坂道路の改修事業を行い、即身仏となって南岳寺に安置されている。亡くなった年は安政5年とも、明治元年、明治14年と諸説あるが、南岳寺の墓石には明治14年10月28日とある。

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