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郷土の先人・先覚161 地域をリードした名物村長

伊藤重治郎(明治2-昭和14年)

伊藤重治郎氏の写真

名物村長として話題の多かった伊藤重治郎は、明治2(1869)年12月に、先代・伊藤重治郎の長男として、当時の飽海郡穂積村(後の飽海郡西荒瀬村、現在の酒田市)の名家に生まれている。先代と同じ名前のところをみると、襲名したのではないかと思われる。

少年時代より学を好み、長じて東京英語学校で勉学。その後私立の名門・慶応義塾に学んでいる。やがて帰郷して郡会議員となり、その手腕を認められ議長に推されている。

さらに明治45(1912)年から大正12(1923)年までの11年間、県会議員を務めて県政に尽くしている。その傍ら6代目西荒瀬村長となっているところをみると、その頃は県会議員を務めながら村長も兼ねるころができたようである。

西荒瀬村は明治22年、藤塚村、豊里村、酒井新田村、宮海村、穂積村、高砂村の6カ村が合併して成立した村で、農村に漁村をわずかに加えた経済的にはそう裕福な村ではなかった。伊藤重治郎はその頃、農村復興の重要な事業であった耕地整理の推進に力を尽くし、経済の発展や教育・文化などにも意欲を示し、住みよい西荒瀬の村づくりに務めた村長である。そうした半面、伊藤村長には奇想天外のエピソードも聞いているので、次に記してみたい。

酒田に鉄道が開通したのが大正4(1915)年12月。酒田駅も同日開業している。ところが現在は駅前通りも酒田市となっているが、当時は西荒瀬酒井新田の地域内にあったもので、駅もいわば借地だったわけである。

大正14(1925)年、昭和天皇が東宮殿下の折、酒田においでになった。その時、伊藤重治郎は、酒田駅は西荒瀬にあるのだからといって、町長より先に歩いて殿下を先導したという。

次に、教育に持っていた伊藤重治郎は、たまたま学校視察に来た県の役人を小学校に案内して、ボロ畳の敷いてある当直室で村の教育事情を説明したという。

実は私も以前に酒井新田に居住しており、こうした話はよく耳にしたものである。誇張された面もあるのだろうが、とにかく逸話が多く、村人のために尽くした名村長であったようである。

その頃、酒田飽海を中心にした地方の政界は、有恒会が勢力を占めていた。伊藤重治郎は郡会議長や県会議員にもなったほど政治的手腕もあり、有恒会の首脳として活躍している。その他多くの公職にも名を連ねている。昭和14(1939)年5月、71歳で亡くなった。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1989年8月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤 重治郎 (いとう・じゅうじろう)

酒田市穂積の生まれ。東京英語学校、慶応義塾に学び帰郷。郡会議員、郡会議長、県会議員を歴任して、長らく西荒瀬村長(6代目)。耕地整理事業の推進に尽力した。また多くの公職を兼ね、飽海郡有恒会の首脳として、地域の村づくりだけでなく、郡内の各分野で活躍、政治的手腕が高く評価された。昭和14年5月21日、71歳で死去した。

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