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郷土の先人・先覚170 非識字の雪辱 郷土教育に

那須亀治(安政3-昭和10年)

非識字の独学から身をおこし、教育が行き届いていなかった山麓に小学校を創立し、郷土の教育に捧げた那須亀治は、安政3年正月、遊佐町白井新田の那須五郎平の四男に生まれた。

白井新田は鳥海山麓南西へ、遊佐町中心部から約8キロ離れた藤井、広野、岩野の3新田を総称した集落。標高160メートル、眼下に日本海を臨み庄内を一望できる景勝地でもある。

また酒井忠徳公が、藩の教育振興に徂徠の源を汲む白井弥太夫をつかい、藩校致道館の学田に選んだ開拓でもある。

開田は享和2(1802)年にはじまり、二十数戸が定着するまで70余年の苦闘興亡があった。亀治が20歳のとき、突然、仙台鎮台入営の徴兵令状が舞い込む。当時、徴兵は嫌悪の目で見られた時代。悲観のうちにも令状に従った。ここで彼は非識字の恥をなめることになる。入営翌日、上官勢ぞろいの前で誓文の署名、捺印を求められるが、一文字も知らない。強いて求められるままに、五郎平の五を記憶に引き出して一文字を記し、難を免れたという。

翌明治10年、西郷隆盛が乱を起こして西南戦役に入る。彼は一兵卒として、勇躍鹿児島に出征する。熊本城に応戦。官軍、賊軍の激しい戦いは後世彼が「兵士の花」として冊子を残している。激戦の流れ弾で脚部貫通の重傷を負う。9月には西郷軍の降伏で戦いは鎮定となるが、教育者として芽を出したのはこの負傷の縁に始まる。

陸軍病院加療中、中西某に「いろは」の手習いをはじめる。彼のひたむきな向学振りは上官の心を動かした。心を砕いて教えを受けたとして、後世、鴻恩を人に語っている。帰国後翌年10月、戦功により勲八等、年俸36円の終生下賜の叙勲に浴す。乗じて彼は山村教育の荒廃を嘆いて東奔西走、学校誘致の運動を起こすが、当時耳を傾ける人もなく、隣村(旧高瀬村)の下当学校の用務員として働き、独学力行、遂に検定の訓導となる。

これを機に私財70余円を投じて私学校を開く。児童18人。熱意が実って明治18年4月21日付で独立学校が許可、宿願の白井学校が開創され、初代校長となって自ら教鞭をとった。

幾多の人材を世に送り、昭和10年には学区をあげて創立90年の祝典をあげた。同年に80歳で死去した。

(筆者・畑山 秀三 氏/1989年10月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

那須 亀治 (なす・かめじ)

安政3年1月生まれ。20歳で徴兵、仙台鎮台に入営。明治10年西南戦争に出征、9月に敵の流れ弾で脚部貫通の重傷を負う。東京陸軍病院に運ばれ、加療中上官について「いろは」からの手習いをはじめ、11年帰国して勲八等、年俸36円の終生下賜叙勲を受ける。この後、私財を投じて私立学校を開校、独学を続け、検定の訓導となった。明治18年白井学校を開創、初代校長になり、郷土の教育に尽力した。昭和10年、80歳で亡くなった。

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