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郷土の先人・先覚175 幕末から明治期 国学の道に生き

照井長柄(文政2-明治22年)

中国の古典、儒教を主流として遵奉した城下町・鶴岡で、異質ともいえる国学の道に生きた照井長柄は、幕末、明治期と波乱の人生を送った。

父の素質を受け、江戸で蘭方医学を修得する傍ら古事記、日本書紀、万葉集などから我が国固有の文化、精神を明かす国学を志し、大山の先覚・大滝光憲、伊勢の荒木田末寿に師事。

さて、庄内の国学が本格化する機縁は、鈴木重胤がこの地を訪れたことである。平田篤胤を師とするため秋田を訪ねた重胤は、既に篤胤の死を知り天保15年江戸への帰途、傷心の身を大山に休めた。大滝光憲が居宅を供して賢木舎(さかきのや)とし、向学の士が集う。

前後7回大山を訪ねた重胤の高弟・長柄は、日本書紀の全文を詳解した重胤の大著『日本書記伝』の真髄にふれた。後の文久3年、江戸で凶刃に倒れた重胤の誤解を解くため、日本書紀伝147巻を校訂し、後年正五位追贈の端をつくったのである。

蘭方医でもあった長柄は古来の医書も講究し、水戸藩の藩医・佐藤民之助に日本古医方を学んだ。庄内地方の山野草や植物を調べて薬種とし、神方流と名付けて治療を施した。

またその性たるや剛毅にして沈着、江戸では樋口十郎左エ門の門に入って剣を磨き、馬庭念流を極めた。町方の典医でもあった長柄は、戊辰戦争では藩の軍医を命ぜられた。しかし、国学者である身には官軍と抗戦するをよしとせず、病と称して戦陣を離れる。

明治維新となって3年、師・重胤の冤罪をそそがんと政府官吏の酒田県知事に日本書記伝を内覧せしめ、教部省に送付された。これらの行為は、時の大泉藩主脳の忌み嫌うところとなり、代官町の自宅は竹矢来(たけやらい=竹などで組んだ塀のこと)で囲まれ幽閉された。

明治7年4月、教部省は長柄に日本書記伝全文の校訂を命じてきた。藩主脳の許可を得られないまま、門人たちの計らいにより旅駕籠に隠れ、難路の越後路から上京する。

校訂執筆中、教部省より出羽三山神社禰宜に任ぜられたが赴任せず、同年11月8日校訂を完了した。その労を讃えられ、金1000疋を下賜されて翌年鶴岡に帰った。明治9年県社鶴岡日枝神社の祠官、次いで庄内初の教導職に補せられ、少教正に任ぜられた。

明治14年9月24日、明治天皇御巡幸の際は、行在所の郡役所で特に単独拝謁の恩命に浴した。医者、神職など門人数十人をその著書『五百津すき』全7巻は、庄内各地の神社縁起を詳述し、得難い資料とされている。晩年は旧元曲師町で医を業とした。

(筆者・米村 光雄 氏/1989年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

照井 長柄 (てるい・ながら)

町医、国学者。文政2年10月15日、旧西田川郡西郷村長崎(現・鶴岡市)の郷土、田村甚右エ門で生まれ育つ。幼名・清彦、のち宗甫、璞平(たまひら)、磯前家(いそさきのや)といい文久年間田村姓から祖先の照井姓に改めた。天保年間父に従って鶴岡に移る。父・足根は和漢の学問に優れ、蘭学を学び、庄内における西洋医学の主唱者であった。長柄も幼少のころから学問を好み、蘭方医学のほか古方医を施す。また、国学の士として師恩に報いその功により教部省とり教導転少教正に任ぜられた。明治22年5月30日に亡くなった。

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