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郷土の先人・先覚18

斎藤 外市

斎藤外市氏の写真

庄内が生んだ大発明王・斎藤外市氏は慶応元年(1865)8月19日東田川郡藤島町長沼の上新田斎藤外助氏の長男として生まれた。

生家は20ヘクタールの農家でしかも長男だったので、農業後継者として育てられた。明治12年3月地元小学校(長雲寺にあった)を卒業すると、「農業をするのに学問は不要」と農家に奉公に出されるが、翌13年(1880)福島県に養蚕とサトウキビの栽培を見習うために働きに出た。先進地の農業経営を見、稲作単作地のふるさとの農業に桑、お茶、サトウキビ等を持ち帰り、長沼に広めようとするが、快く受け入れてもらえなかった。

彼は「わが国を世界に負けない立派な国にしよう」という一大決心をし生家に帰って、土蔵を改造し研究室を作り、研究に没頭する。当時を回想する老人の話によると、研究室に入ると1週間も10日も出てこない。髪ぼうぼう、ひげぼうぼうで全く奇人変人の様相であったという。

彼は小学校4年でそれ以外の学校には行っていないし、専ら実験と読書のくり返しで、他人の何倍もの努力を続ける努力家であった。

「世界の日本にし、豊かな国にする」ということで手織り織機に目をつけ、輸出向け羽ニ重の生産で、外貨獲得を図った。研究7年目にして斎外式力織機を発明、県内はもちろん、富山、福井と日本の織機の6割を占める盛況であった。さらに軽目繻子を織ることに目をつけ、これを完成し、日本の輸出品目に一項目を加えることになるわけである。

しかし彼の研究はそれだけではなかった。織機の研究のかたわら1880年、25歳の時、陸軍に軽気球を、海軍に潜航艇を発明し献納している。その他、改造魚雷艇、飛行船、水雷、飛行機、タフク織機、タオル織機製糸無断装置刺繍織機、人造絹糸製造等々の発明を次々完成している。

明治45年5月48歳の時、これまでの数々の発明の功績により、藍綬褒章を授与されている。

1907年斎藤真三郎とともに鶴岡に両羽実業新聞社を創立、地方文化の発展をはかる。羽前輸出織物信用組合、鶴岡瓦斯株式会社の設立にも参画、余目油田の開発等も手掛けるが、最後は最上郡の大開墾事業に失敗、多くの負債をかかえ、失意の中で病に倒れ、大正15年1月31日波乱に富んだ62歳の生涯を閉じた。

機法院心外無一居士、長沼長雲寺に眠る。

(筆者・野口市松 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤 外市 (さいとう・といち)

「発明は俺の生命だ。俺のひとつの病気だ」と一生その病気にとりつかれたのが外市。

慶応元年(1865)に長沼(現鶴岡市)に生まれる。小学校4年で終了し、農業に従事。子供のころから機械いじりが好きだった。明治22年に軍用軽気機、潜航船を発明。その後、繻子製織機、飛行機、コール天織機、十連発小銃など次々に発明。特に、輸出羽二重を電力で製織したのはわが国最初で、年間1万台を量産した。また、両羽実業新聞、鶴岡瓦斯会社の設立にも関与し、町(市)会議員としても尽力した。

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