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郷土の先人・先覚193 庄内の稲作に乾田馬耕を導入

伊佐治八郎(生没年不詳)

伊佐治八郎氏の写真

米産地庄内の稲作近代化事始めともいわれる基礎を築いた先人の功を称えて建てられた碑が、庄内に2基建立されている。1基は酒田市宮内にあり、明治28(1895)年、伊佐治八郎の功績を刻んだ"乾田記念碑"である。

 

もう1基は東田川郡藤島町(現・鶴岡市藤島地区)にあり、明治24(1891)年、島野嘉作の功労を刻んだ"稲作改良碑"である。この稿では乾田馬耕に大きな足跡を残した伊佐治八郎について述べていきたい。

 

昔は湿田で土壌が柔らかく、膝まで没する有様で農作業は困難だった。そこで取り上げられたのが湿田の乾田化と馬耕作業である。

 

伊佐治八郎は筑前早良郡原町大字小田部(現・福岡県)の生まれで、名は宗養ともいう。生没年不詳。

 

明治時代に入ると治八郎の生まれた福岡県は農業の先進地として知られ、乾田馬耕法は最も普及していた。明治24年飽海郡から水田を乾田に改良する要請を受け、明治、大正に渡って、我が国農業界の指導的役割を果たされた農学士・横井時敬(よこい・ときよし)の推薦で伊佐治八郎が庄内に来た。彼はまずこの方法を遊佐郷に起こし、刻苦勉励して乾田馬耕を成功させた。それを記した"乾田記念碑"の一部を要約すると、

 

「…稲よくみのり効果大で、方々から見学者が多くなる。以前にも乾田の法を試したが土が硬くなり、労力の割に効果なく、先生の教えた馬耕を施したので、秋の収穫は倍しゃ(ばいしゃ=5倍)した…」

 

とあり、そして撰文の末尾に横井時敬は次のごとく称えている。

 

「昔なれば即ち沮洳(そじょ=湿地)、今乾田と為る、馬以て人に代り、馬健(すこやか)に堅(かたき)犁(たがや)す、我稼?々(みのりぎ=しげる)たり、歳取口千、鳥海之陽(みなみ)、遊佐之辺、民の為に利を興し、之が為に率先し、力を省き功を倍にす、業績永(とわ)に伝らん」

 

こうした功績に対し飽海郡臨時郡会では伊佐治八郎に金100円を贈り称えている。

 

郡の委嘱が終わると、本間家の依頼で明治35(1902)年まで、本間家関係の農民に乾田馬耕を指導しており、庄内米の声価を高め、増産に尽力した後帰郷している。

 

記録によると、明治30年ごろには、飽海郡、東田川郡合わせて八千数百町歩に渡って乾田馬耕が行われたと記されている。

 

伊佐治八郎の功績を知り、当時を偲ぶものに、前に記した榎本武揚篆額(えのもとたけあきてんがく)になる"乾田記念碑"のほかに、酒田の下日枝神社拝殿に酒田の洋画家・池田亀太郎の描いた馬上姿の伊佐治八郎の肖像画がある。

 

やがて庄内平野には次の大改革である耕地整理が進められた。

(筆者・荘司 芳雄 氏/1990年2月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊佐 治八郎 (いさ・じはちろう)

乾田馬耕教師。福岡県出身、同農事試験所に勤務して近代稲作農業を研究。明治24年飽海郡から招かれて庄内へ。郡内5カ所に模範田を設置して稲作の改良を試み、乾田馬耕を指導。乾田馬耕の普及によって庄内の稲作が大幅に増産、庄内米の声価を高めた。農民の信頼を得て酒田市内にその功績を称えた記念碑が建てられた。

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