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郷土の先人・先覚203 初代県衛研所長 産業界にも貢献

浦本政三郎(明治24-昭和40年)

山形県衛生研究所を創立し、初代所長を務めた医学博士。県内産業界の振興発展に寄与した個人、団体に毎年贈られている山形県産業賞の生みの親でもある。

鶴岡の当時の大宝寺村新斎部万年橋、今の新海町にあった榊原源五郎(政勝)の三男に生まれた。明治37(1904)年に荘内中学校に入学したが、その後、熊本の浦本家に入り熊本中学校に転校した。

生家は旧荘内藩士の家柄。祖父は旧荘内藩士であり、その後事業家となった榊原十兵衛(天保3-明治35年)。また大正2年ごろ旧満州に5000万坪という広大な土地を獲得して榊原農場を開き、事業化として名を馳せた榊原政雄(明治10-昭和11年)は、長兄である。

熊本中学から旧制五校(現・熊本大学)を経て京都帝国大学医科大学に進学した。大正5年に卒業し、さらに大学院に進んで生理学を専攻。同10年、医学博士になった。翌年から東京慈恵会医科大学の教授として教壇に立ち、生理学を教えた。

同大学に勤めること約30年。昭和26年ごろ退職し、自宅に浦本研究所を開設。研究員の指導に当たった。また、その間に大正15年から理化学研究所の嘱託となり、我が国生理学会の中心になって活躍した。

研究員を養成する傍ら、27年には熊本市に万生会浦本病院を開設、さらに29年から熊本大学や山形大学、国士舘大学の講師も兼ね、特に山形県では県内の医学の遅れを憂慮して、県衛生研究所を創設した。初代所長に就任し、農村医学の開拓に力を注いだ。

帰郷の際は余暇をさいては農村に出向き、農村の生活環境を医学の面から調査解明し、衛生研究所の所報に発表して県内の医療向上に努めた。また、衛生研究所の中に研究科を設け、若い人たちを指導し、郷土の次代を担う人材育成に尽力した。

その成果が大きく実を結び、研究生の中から30人余の博士を輩出したといわれている。

県衛生研究所の所長在職7年5カ月。退職した36年に県内の科学技術の振興、産業発展のために、と県に30万円を寄付。県はこれをもとに翌年、浦本科学技術賞を制定。県内の優秀な業績をあげた個人・団体に贈り、功績をたたえることにした。

この浦本科学技術賞が、44年には県科学賞となり、47年に県産業賞に発展した。

59年に発行された県衛生研究所30周年記念誌に、かつて同研究所に勤務したことがある東北大学の石田名香雄さんは「浦本先生は古武士の面影があった。しかし、学哲の持つ清廉さに加えて、この人の持つ行政手腕というか、人事配慮には一驚した」と印象と記し、また教え子の一人は「先生は英国紳士タイプの温厚な学者で、我々教え子はいつも甘えているところがあった。同時に明朗なスポーツマン」と新聞に書いている。(「鶴岡百年の人物)

尺八の名手ともいわれ、民謡を歌う風流な一面もあり、県民謡界の発展に尽力した。

(筆者・田村 寛三 氏/1990年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

浦本 政三郎 (うらもと・まささぶろう)

医学博士。明治24(1891)年5月21日鶴岡に生まれる。京都帝国大学医科大学卒、大学院で生理学を専攻。東京慈恵会医科大学教授。浦本研究所を開設して研究員を養成、病院も開く傍ら、山形大学の講師を務め、山形県衛生研究所を創設し、初代所長となる。運動生理学の先駆者といわれ、日本生理学会の中心になって活躍した。昭和40年10月8日、74歳で亡くなった。

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