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郷土の先人・先覚206 水不足解消へ農業電化導入

木村九兵衛(安政元年-昭和8年)

米どころ庄内は、今でこそ灌漑施設が整備され水田が潤っているが、整備される以前は各地で水不足に悩まされ、需要期には農民同士の水争いが絶えなかった。この水不足を解消するために「電力揚水機」を導入、これが我が国の「農業電化」の最初といわれ、農業電化の"生みの親"であり、農業の発展に大きく貢献した。

水沢(現・鶴岡市)の出身で、明治18年に当時の西田川郡大泉村矢馳の豪農・木村九兵衛宅に婿養子。24年に家督を継ぎ、家名の九兵衛を襲名した(本名・民吉)。同家はその前年、当時としては県内でも15人しかいなかったといわれる貴族院多額納税議員の互選資格を得た矢先だった。

明治30年代の米作りは、農家が水不足に悩まされていた。乾田農法が流行り出し、耕地整理や開田が進み、同時に農業用水の需要は増大する一方。田植え前後の需要期や、渇水期には各派川の末端で水不足をきたし、各地で水争いが絶えなかった。

土地が若干高めになっている矢馳地域も水問題は深刻で、矢馳耕地整理組合を組織して耕地整理事業に取り組んでいた九兵衛は、電力を利用した灌漑に着目、電力揚水機の設置を発案した。

設計を担当した鶴岡水力電気㈱の今井技師と東京・多摩川浄水場の上水設備や横須賀海軍ドックの排水設備を視察。地主らにはかって明治35年に矢馳揚水機組合を組織し、地区を流れる湯尻川に揚水機場を設置した。

この揚水機は、ドイツ製の15馬力の電動機と、石川島造艦所製のポンプを組み合わせたもので、設備費は総額2499円28銭。これには大泉村、青龍寺川、八沢川各水利組合の補助を受け、木村家も100円を寄付。鶴岡市史によると、残りの474円57銭は他の地主が負担したという。

当時は、鶴岡水力電気会社(のちに東北電力へ統合)が創設されたばかり。大泉地区にはまだ電灯がなかったので、揚水機が設置されたのを機会に木村家のほか、村役場、小学校に点灯されたという。

電力揚水機の設置によって107ヘクタールの水田を潤した。これが我が国農業電化の最初といわれ、昭和10年2月矢馳揚水機組合は、「農事電化功労者」として農事電化協会の表彰を受けた。また、同27年10月、農事電化50周年記念に県、東北電力の協力で、揚水機場の設置場所に農業電化発祥の記念碑を建て、九兵衛の功績をたたえ、後世に伝えている。

一方、地方政界、実業界にも進出し活躍した。

明治25年に大泉村議になったのをはじめ、29年には西田川郡会議員、36年には県会議員。この年には副議長に推された。

さらに村、郡、県各農会議員、赤川、青龍寺川、八沢川各水利組合議員も務め、両羽農工銀行、荘内貯蓄銀行を創設。鶴岡銀行、鶴岡水力電気株式会社の役員として経営に携わり、各方面で尽力した。 「山形県議会歴代議員名鑑」によれば、性格は「質実剛健温厚、熟慮断行型の人で、信仰厚く端正な紳士」と紹介されている。

(筆者・須藤 良弘 氏/1990年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

木村 九兵衛 (きむら・くへえ)

安政元(1854)年2月28日鶴岡市水沢(当時は水沢村)の生まれ。本名・民吉。明治18年同市矢馳(当時・西田川郡大泉村)の豪農・木村久兵衛宅へ。大泉村議、西田川郡会議員、県会議員となり政界入り。地方政治に活躍した。田畑200余ヘクタールを所有する大地主。全国初の電気揚水灌漑、耕地整理を促進するなど農業振興に尽力。鶴岡銀行、鶴岡水力電気会社などの経営に参加し、地方実業界の発展にも貢献した。昭和3年に紺綬褒章受章。昭和8年7月28日。80歳で亡くなった。

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