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郷土の先人・先覚21

斎藤 野の人

斎藤野の人氏の写真

野の人が兄樗牛に初めて逢ったのは、明治19年3月6日祖母・竹の危篤が報じられた時である。樗牛16歳、野の人9歳。後日『中央公論』に書いた「亡兄高山樗牛」の文中―樗牛と予とは、本当の兄弟であるが、幼い時より樗牛は高山家へ養子に行き、加ふるに早くより他郷に暮らしたのであるから、予が10歳ごろまでは、樗牛が兄であることも知らず又顔を見たことも無かった。―と述べている。

樗牛自身はすぐ下の弟良太を最愛の弟とし野の人を(信策)を不肖の弟として軽視していたようであるがその兄樗牛の生き方を墨でなぞるようにして模範とし影のように寄り添って生きたのは外でもない野の人である。

明治13年夏、彼が父に伴われて上京し樗牛の許に(本郷西片町)寄宿したのは二高受験のためであった。仙台二高の試験日は9月1日。受験準備のために上京した野の人は、すでに病に倒れていた樗牛を試験終了後も鶴岡には帰らずひたすら看病に専念し、国元の両親を安心させるべく努力した。

兄と同じ二高に学び、兄と同じ帝国大学文科を卒業し、そして兄と同じ雑誌『太陽』『帝国文学』を居城として論陣を張った野の人は、兄樗牛の死に臨み、姉崎正治に送った書簡の中に―嘲風先生足下、予は君が最愛の友の1人なる高山樗牛の弟也。予が命よりも愛したる彼は今逝きたり。―と記している。野の人は最も敬愛する兄の懊悩も煩悶も我が身に受けつつ刻々細りゆく命を如何とも出来ず、ただ万が一つの奇跡を願いながら看病に明け暮れた。そしてやがてその臨終をみとらなければならなかった。

彼は鎌倉の林中で兄の遺骸を荼毘に付し、その骨を涙と共に掻き抱いて彼の遺言の丘龍華寺に埋葬した。時にわずか25歳帝大卒業前年であった。そして亡き兄の膨大な業跡を日夜骨肉を削ってまとめ上げたのであった。即ち「樗牛全集」である。

ケーベル教授に愛され「哲人何処にありや」を著した彼は、寡黙で鈍重なるが由に与えられたという野の人をもって公にした論文は、明治36年5月号、6月号の『帝国文学』に発表した「若き日本」「国家と詩人」であった。

やがて帝大を卒業した彼は兄樗牛の惨憺たる最後を自分の運命とし、妻帯もせず1人西大久保に仮住まいしていたが、体調すぐれず、それでも急きょ駆け付けた国元の老母にみとられながら静かに安らかに天に帰したのである。

明治42年8月6日

享年32歳。斎藤野の人は兄樗牛の遺言に我が背に余る兄の墓標を背負い上げた龍華寺の丘に奇しくも兄の齢をもって兄と共に兄の墓で永遠のねむりについたのである。

法号 文祐院誠篤日悌居士

佐々木信綱氏弔歌

駿河なる海ゆたけき見つつとこしへに何おもひます兄君のもとに

(筆者・畠山カツ子 氏/1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤野の人(さいとう・ののひと)

評論家で兄樗牛の全集編集に心血を注いだ。

明治11年、斎藤親信の四男として生まれ、名は信策。仙台の旧制二高時代に同校尚志会の懸賞文に「春夜月に対す」を応募し二等になる。東京帝大文科に進み、雑誌「太陽」や「帝国文学」を舞台に「若き日本」「国家と詩人」「現代思想に対する詩人の覚悟」など多くの評論を発表。時の人々の注目を集めた。一方、明治大学の教職についたが、個人主義の考え方で問題視され、辞任。帝国文学も廃刊となり、明治42年、32歳の短い生涯を終える。

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