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郷土の先人・先覚227 海上自衛隊の創設と終戦処理に功績残す

山本善雄(明治31-昭和53年)

終戦時に最後の軍務局長を務めた元海軍少将・山本善雄さんの遺品である「把手付陶製瓶」が、蔵書である「アメリカ教育辞典」全14巻などと共に遺族から致道博物館に寄贈されている。

高さは40センチある珍しいこの陶製の瓶は、山本さんが英国大使館付武官補佐官としてロンドンに駐在していた昭和12(1937)年5月、ジョージ6世の戴冠式があり、その折に記念品としてもらったものだという。以前に寄贈して頂いた「正装用の軍服」や、海軍大学校を首席で卒業したときの「恩賜の軍刀」と正に対を成している。

山本さんは郷土出身の逸材であるが、彼は海軍大臣を務めた米内光政大将らのいわゆる海軍の良識派に属し、戦時中は決して華やかな存在ではなかった。しかし、終戦の前後には大いに活躍し、復員後は時の首相・吉田茂に招かれて海上自衛隊の基礎作りに大きな功績を残した人である。

私は生前の山本さんには毎度お目にかかっているが、一見好々爺とでもいうような親近感を持ってお会いした。後日、山本さんをよく知る大井篤さんから、直接その人柄や終戦後の活躍ぶりをお聞きしていたく感激した。この際、郷土の誇りとしてあえて偉人・山本さんの事を紹介したいと思う。

山本さんは、小学校校長、町長、県会議員など多くの公職を務めた藤島の名望家・山本清一郎の三男として明治31(1898)年に父の出向先である東京で生まれた。

生後間もなく両親に伴われて帰郷し、鶴岡の荘内中学に入る。往復4里の道を毎日徒歩で通って無遅刻・無欠席、聖関もずば抜けていたという。大正5(1916)年に第24回卒の中学同期には、のちに鶴岡市長になった松木侠や、刀剣鑑定家の氏家彦太郎もいる。

卒業の年の8月に海軍兵学校に入学して同8(1919)年10月第47期卒、仏・伊両国に遠洋航海し、帰国後艦隊勤務を経て、海軍大学校の甲種学生に選ばれる。昭和6(1931)年第29期を卒業し恩師の軍刀を拝受した。

山本さんは生来温厚篤実で、威張るとかハッタリをきかすとかいうことがなく、謙虚で実に思慮深かったと伝えられる。

海軍省の副官から昭和10(1935)年5月少佐のとき英国大使館付武官補佐官を命ぜられてロンドンに赴任、11月には中佐に任じられた。

当時の駐英大使は後の首相・吉田茂であったが、ロンドン軍縮会議脱退、二・二六事件、日独防共協定の締結などの大きな出来事が次々と起こり、その都度これらに批判的な吉田大使に大きな感化を受けている。こうしたことが機縁となり、後々までも頼りにされるようになった。

昭和12(1937)年海軍省に復帰。軍務局軍務第一課勤務を命ぜられ、海軍大臣・米内光政、同次官・山本五十六、軍務局長・井上成美ら良識ある人々のもとで才能を発揮する。そして陸軍が強く主張した日独伊三国同盟の締結阻止に回ったこともあって、昭和14年11月、山本さんは中央を離れ支那方面艦隊の参謀に遷された。

しかし、戦争中の昭和17(1942)年2月になって、再び海軍省に呼び戻されて軍務局第一課長を補任、軍政の中枢にあって国力を挙げての戦力化に尽瘁し、海軍大臣・嶋田繁太郎大将の信頼を受けたのである。

同19年になって、マリアナ沖海戦の惨敗やサイパン諸島の失陥など引き続いての敗戦に、米軍との明らかな物量の差を身近に感ずるようになると、いち早く終戦策を上部に進言している。

同20(1945)年5月、山本さんは少将に進み、7月本土決戦に対処するために設立された内閣総合計画委員会に幹事の地位で出向したのだが、やがて8月の終戦を迎える。

ここで海軍省に復帰して海軍終戦委員会の委員を命ぜられ、米内海軍大臣の幕僚として終戦後の容易ならぬ事態の収拾処理に当たる。軍人のみならず海外在留邦人の内地への早期引き揚げを行うため、日本に残存する艦艇の活用などについても心を砕いた。

また、終戦後の旧軍部には、何とか旧陸海軍を温存して将来の再軍備の足掛かりにしようという動きがあったようだが、山本さんはこれを押さえて、日本の陸海軍は一旦完全に解体し将来出直すべきだという考えに徹していた。無謀な旧陸軍の勢力が再び頭をもたげてくるのを懸念してのことと思われる。

そして連合軍総司令部から旧陸海軍の解体命令が出た。山本さんの考えは占領軍の方針と軌を一にすることとなった。

終戦の年の11月17日になって山本さんは海軍省の軍務局長に補任される。同月30日までの短い期間。帝国海軍の最後の軍務局長であった。

海軍省はこの30日に廃止されて翌12月1日から第二復員省(陸軍省は第一復員省)に変身したので、この日山本さんの少将の肩書きも外れて武官から文官の身となり、第二復員省の総務局長に任じられた。

その後、再三の組織変更があり、昭和23(1984)年から山本さんは運輸省海運総局の掃海艦船部長の任に就き、1500名に及ぶ旧海軍軍人と残存する小艦艇を指揮して運輸省に移った。

連合軍は日本非武装化方針を実現するため旧軍を解体したのだが、陸軍はともかく日本に海軍が無くなってみると、密輸が盛んに行われ、不法侵入が野放しという有り様で対策に苦慮するばかりであった。その結果、山本さんらの助言を入れ、同年5月に海上保安庁をつくったのである。

ちなみに、戦後における日本の陸上防衛力は山本さんらを中心とする旧海軍グループの綿密な再軍備計画を、米国側で取り入れることによって出来上がったということは、後日山本さんが残した資料によって明らかにされている。

翌24年4月、山本さんは通算40年の官界生活に別れを告げて退官したのだが、そのころから米・ソ2大勢力の競合が激化し、25年6月には朝鮮戦争が発生して、在日米軍がその戦場に動員されることになった。

この結果、連合軍の対日占領政策は、これまでの日本弱体化から再軍備へと転換せざるを得ず、警察予備隊の設置と海上保安庁の増強という方針を決定した。

昭和26(1951)年8月、講和条約締結準備の目的で来日した米国大使ダレスは、吉田首相に日本の再軍備を強く求めている。

そのようなこともあって、同年10月、山本さんは極秘裏に設けられた海軍防衛力創設のための委員会の委員長に内閣から任命されて、大いに活躍した。11月には直接吉田首相に招かれて意見を聞かれているが、その模様は山本さんの日誌に詳しく「総理の考え方が自分と全く一致しているのに一驚を覚えた」などと記されている。

いったん官界を去って民間人となった山本さんが、戦後における日本の海上防衛制度を作りに当たり、政府からこのように頼りにされたのは次のような理由によるものと言われている。

つまり、山本さんは元来軍国主義の信奉者ではなく、人格者として旧海軍軍人の間で評判が良かったこと、長く海軍中央に在って内情を知悉していたこと、終戦処理に卓抜な実績を示して広く戦後の官界にも信用が厚かったこと-などがそれである。

昭和27(1952)年4月海上警備隊発足、7月には保安庁法が成立して海上警備隊は陸の警察予備隊とともに保安庁を構成し、日本の防衛に当たることとなった。

4年前の昭和23年に山本さんの指揮下に入って運輸省に移籍した1500名の旧海軍軍人は、このとき保安庁の海上警備隊に所属替えされ、後年海上自衛隊を背負って立つのである。

保安庁は内容を充実させて昭和29(1954)年7月防衛庁設置法に基づく防衛庁に発展、新たに航空兵力を加えて陸・海・空3軍の陣容を整えた自衛隊となり、わが国防衛の主任務を担当して現在に至った。

その年山本さんは住友商事株式会社に請われて顧問に就任、32(1957)年には静岡県清水市の伊藤鉄工所に取締役会長として招かれたが、いずれも48(1973)年に引退している。

山本さんは詳細な日記ばかりでなく、自分が直接関わった海上自衛隊創設までの裏面史を記録した極秘の史料を残しており、その中には「我が国における武装解除から再武装まで」と題する回想録もある。

そして晩年には貴重な生き字引きとして大東亜戦史や防衛庁戦史の編纂に協力するなど大きな役割を果たし、昭和53(1978)年11月28日、惜しまれつつ80歳の生涯を終えたのであった。

本稿をまとめるに当たっては、山本さんの後輩で戦史研究家でもある後藤新八郎さんの著述などを参考にさせていただいた。お礼申し上げたい。

(筆者・酒井忠一 氏/1990年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

山本善雄(やまもと・よしお)

元海軍少将。藤島の旧家・山本清一郎の三男として明治31年に父の任地である東京で生まれる。荘内中学校、海軍兵学校を経て海軍大学校を卒業した。吉田茂、米内光政らの知遇を受けて特に戦後処理に活躍。海上防衛力の整備に尽瘁し海上自衛隊の創設に大きな功績を残している。昭和53年に亡くなった。

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