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郷土の先人・先覚233 自由民権運動で活躍

清水斎記(嘉永元-明治36年)

明治初期、森藤右エ門などが指導するワッパ騒動が起き、この地方でも自由民権運動が盛んになり、数多くの民権運動家が輩出した。その中で酒田の清水斎記は最も精力的に活躍した1人である。

斎記は明治3年から4年まで田中文蔵方に入塾して漢学を学び、明治4年から8年にかけては、法律学者で語学者としても有名な箕作麟祥(みつくりりんしょう)からフランス法律学を学んで、代言人(弁護士)になっている。

ワッパ騒動の指導者である金井3兄弟の1人栗原進徳が、明治8年7月に鶴岡代官町の栗原宅に法律学舎支校を開校し、栗原がその校主となった。斎記の学職と代言人として力量などを高く評価していた栗原は、斎記を法律学舎支校の教師として迎えている。斎記はここで、内国法律、中国及び西洋各国の法律を講じたが、無給であった。

斎記は、明治維新まで酒田亀ケ崎城の御用商人であった青塚義左エ門の娘・清乃の婿となるが、清水の姓を捨てなかった。青塚家は酒田本町四丁目で旅館を経営するが、経営一切を清乃に任せ、自分は政治活動に没頭している。

森藤右エ門が中心となって結成した尽性社が、明治14年急進派の飽海協会と穏健派の飽海農談会に分裂した。森らが中心の飽海協会は同15年酒田今町の劇場で大演説会を開いている。森は「国会の準備」、松嶺出身の斎藤千里は「専制政府ハ其人民ヲ殺シテ余ス処ナシ」、斎記は「瘡痕ハ之ヲ癒サントスニ切断法ニ如クハナシ」と論じている。

明治16年2月8日、森らの機関紙である両羽新報が発行停止となるや、同月10日には早くも酒田本町七丁目に住む代言人の斎藤保と斎記の両名は、両羽日々新聞の発行を内務卿に上願している。同年4月に両羽日々新聞社の社長に森藤右エ門、幹事に鵜渡川原村(現・酒田市)の高橋直勝、取締兼会計監督に斎藤保と斎記が就任している。

明治16年2月飽海協会が「自由を拡充し、権利を保全し、幸福を増進し、社会の改良を図り、善美なる立憲政治を確立する」を目的に、酒田本町七丁目に庄内自由党を結成した。森、鳥海時雨郎と共に斎記も庄内自由党の理事になっている。また、自民党加盟仮世話掛にもなり、晩年まで政治活動をやめなかった。

妻・清乃の経営する清水屋旅館は、斎記の政治活動の拠点となるが、明治42年酒田伝馬町に移り、のちに旅館を廃業して大正15年防水布、学生服屋となり、のち清水屋庸福縫製所、昭和25年に清水屋百貨店となった。

(筆者・須藤良弘 氏/1990年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

清水斎記(しみず・さいき)

自由民権運動家。嘉永元年12月、宮城県に生まれる。士族。子孫の話によると、赤穂浪士討ち入りで有名な清水一角の末裔で、戊辰戦争時に青塚家に宿泊、娘の清乃と恋仲になって入夫。清乃は、政治活動のため家業を顧みない斎記を、自ら男まげを結い、男装までして支えたという。

後に政友会に属し、明治25年から34年まで酒田町会議員。明治27年庄内大地震で創設の震災救済義会の事務委員。明治36年7月23日、55歳で亡くなった。

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