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郷土の先人・先覚241 剣道の発展に貢献

伊藤政一(明治14-大正15年)

伊藤政一氏の写真

教員として地方の教育界に尽くす傍ら、剣道の発展に貢献、稽古中事故にあって殉職した伊藤政一は、当時剣道界の亀鑑(きかん・模範や手本となる人)といわれた。

政一は明治14(1881)年4月、飽海郡吉田村(現・酒田市)で父・正治、母・お弥の長男として生まれている。祖先は伊藤政盛と称し、万治2(1659)年に吉田村鶴田地区の草谷地を開拓、吉田新田村を興した功労者で、「お館様」と呼ばれた旧家である。聞くところによると政一は16代目に当たるという。

明治36年山形師範学校卒業、同年北平田尋常高等小学校の訓導となる。剣道歴は明治24年尾形衛門・佐藤俊蔵より習い、同36年神道無念流目録初巻を受ける。大正7年、範士・高野佐三郎に学び、同8年免許4級(4段)を受けた。

殉職事故は政一が酒田琢成尋常高等小学校に任職中の出来事である。当時、同校は県下でも剣道の強い学校で、酒田商業学校とともに剣道の名門校として知られた。大正15年8月1日から酒田商業学校で暑中稽古が行われていたが、痛ましい事故は同月7日に発生している。

稽古相手は竹内道場にきていた山形高等学校生徒で、午前8時ごろ生徒の突きで防具の垂れが外れ、喉頸に突き刺さって、その場に倒れた。道場は大騒ぎとなり、さまざまな手当てをしたが、同日午前11時ごろに息を引き取った。

急の知らせを受けて駆け付けた親戚の方の言によれば、亡くなる前に突然起き上がり、正座をして手を合わせた後に亡くなったというが、いかにも剣の道で鍛えた人の最後であったと感慨を深くしたという。

人柄は清廉潔白にしておごらず、一筋に武士道精神を重んじ、古武士の風格があったと伝えられており、剣道を志したのも彼の強い性格と、父の厳しい教育があったからと言われている。

教育でも剣道でも、これからが円熟の域に入り指導者として活躍を期待されていただろうに、惜しい人材を失ったものである。琢成尋常高等小学校長・山田與太郎は、葬儀の席上で伊藤政一訓導の職に殉じた壮烈な死に、痛恨極まりない哀悼の辞を次のように述べている。

「…俄然(がぜん)奇禍に遭(あ)う嗚呼(ああ)痛しきかな、然りと雖(いえど)も君は剣を握りて職に殉じ斃(たお)れて後やむの範をたれたるものにして、武士道の最後を飾りたるものというべし…(以下略)」。享年46歳。

(筆者・荘司芳雄 氏/1991年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤政一(いとう・せいいち)

教育者、剣道家。明治14年4月吉田村(現・酒田市)に正治・お弥の長男として生まれる。先祖の政盛は吉田新田村を興した人。伊藤家16代。明治36年山形師範卒、同年北平田尋常高小訓導。剣道は、明治24年尾形衛門らに習い、同36年神道無念流目録初巻を受け、大正8年4段に。大正15年8月7日、酒田琢成尋常小在職中、暑中稽古をしていたとき、相手の突きをのどに受ける事故で死去した。

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