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郷土の先人・先覚255 治水に生涯をかける

佐藤文治(明治3-昭和9年)

大正6年9月、東田川郡広野村上中村の延命地蔵敷地内に「佐藤氏紀功碑」が、同村上中村・下中村・奥井新田・袖浦村・坂野辺新田・十里塚の人々により建立された。

その碑文に「佐藤文治氏奥井排水溝及赤川京田川堤防事業奏効以至今日多依氏之力我等慕其徳有志相謀建一碑石以表徴意」とある。奥井排水溝と赤川、京田川堤防事業の完成が佐藤文治に負うところが大として、その徳を称えている。文治はこの地方の治水に生涯をかけた人である。

昔、広野地区ははんの木谷地と称され、大小の沼が点在する湿地であった。赤川と京田川から囲まれ、それに赤川、京田川と最上川の合流点に近かったことから洪水に悩まされた。幾多の先人が洪水と戦い、低湿地の開発を進め、村づくりを行ってきた土地である。

しかし、明治に入っても洪水による被害は数多く発生し、村は疲弊した。村を離れて北海道に移住する者も出てきた。そこで佐藤文治らが中心となり、明治32年から45年にかけて、京田川の堤防の新設、赤川の排水溝や堤防の新設などを行った。この事業のため明治35年に赤川水利組合を組織している。

それでも西方から流れてきた赤川は、黒森地内で急に流路を北に変えていることから、袖浦村から広野村にかけての洪水の被害は依然として大きかった。

それを防ぐために、赤川の河身の拡張が計画された。それが実行に移されると、赤川両岸の美田100町歩が潰れ、民家30戸が移転することになるので、佐藤文治や袖浦村の久松元祐が中心となり、黒森地内の西山を掘削して、赤川を直接日本海に流す工事実施の運動を展開した。

幾度となく各方面へ必死に陳情を繰り返しているが、赤川新川堀割にはどこも冷淡であった。そこで国光生命保険の鶴岡駐在員・阿部喬の仲介で、秋田県の代議士・榊田清兵衛に頼み、国への働きかけを行っている。(『治水安民』より)

西山くっさく期成同盟会が結成され、久松元祐が会長、佐藤文治が副会長となった。佐藤家に残る榊田の手紙によると、文治は上京し、上野停車場前の東京館に宿泊し、運動を展開している。

榊田や久松、佐藤文治らの努力が実り、大正10年6月、西山開削の工事が実施された。工事費292万円余、労働者延べ2万7700人余を投入して、昭和2年7月に延長2800メートルの赤川新川が開通した。

(筆者・須藤良弘 氏/1991年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤文治(さとう・ぶんじ)

農業。明治2年広野新田村下中村に生まれる。同村の佐藤治郎左衛門の分家で、文治が初代。酒田市落野目の佐藤五右衛門家も本家筋。広野村村会議員、学務委員、東田川郡電気組合議員、赤川水利組合議員、郡会議員など多くの役職に就く。子孫によると、小作農で、養蚕にも力を入れ、酒は強かった。「西山堀割発端巻」がある。党派は違っていたが榊田の恩を忘れず、その戒名を掛け軸にし、盆などに供養していた。昭和9年7月4日に亡くなった。

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