酒田市二番町の小松家に、小松周輔の書き記した『入湯温海日記』が残されている。
この日記は文久2(1862)年に周輔夫妻が温海に湯治に行った時の日記で、「入湯前買調物」や「入湯二人前荷物」には湯治に要する準備が詳細に記され、さらに出発から温海到着まで夫妻が疲労困憊した丸2日間の苦しい行程、21泊の平穏な湯治生活、宿主と馬士の欺きによって難儀した帰路などが書かれており、興味深いものである。
小松周輔は酒田鍛冶町で鍛冶を業としていたが、幼少から学を好んだ。学問所として著名であった修験覚寿院の塾に入り、学問に励み、断然頭角を現すようになった。人々から学問の才能を惜しまれ、江戸に遊学する機会が与えられた。江戸では経史を学ぶとともに、生活の資を得るために漢方医学も学んでいる。
郷里酒田に戻ると医を業とした。何度か火災に遭ったことなどで9人家族の生活は極度に苦しく、節倹に努めた。父母への孝養の念強く、厳冬期寒さをしのぐものがなく、自分の衣服を父母に着せ、自分はわらの中に寝るなど多くの逸話が残されている。
周輔は博識多才で医はもとより、経史、神書仏典、易理、算術に至るまで精通していたことで、その徳行と学識を慕って教えを請うものが多かった。
周輔の家の近くの上ノ山覚寿院では前々から経書輪講会が行われ、経史夜講会として酒田町の学閥の一大拠点であった。天保のはじめ、周輔は人々から推され覚寿院輪講会の会主となり、40年以上もの間学問を講じ、多くの優れた門弟を育成している。酒田出身の大儒学者・伊藤鳳山も周輔の抜群の記憶力に驚嘆している。
天保4(1833)年、酒田の豪商・白崎五右衛門一実が、医学研究と治療の目的で御町医会所を設置すると、周輔はそこで町医のために儒学や医学を教え、40年もの間「傷寒論」を講じている。この医会所は酒田市本町通りにある十全堂の前身である。
周輔には『永代漫録』、『酒田神社録』、『聞老美談』の著書があり、万延2(1861)年には酒田町の御町医筆頭を命じられている。天保の大飢饉時に窮民救済の功のあった白崎一実ら3人の功を称えた碑が、酒田町正徳寺に建てられるが、その撰文は周輔によるものである。
医師、儒学者。寛政10年酒田町鍛冶町に生まれる。小松家は平家の落人といわれ、小松家の過去帳によると先祖は草津村(現・酒田市八幡地区)に住み、小松村(現・遊佐町)を開発。のちに酒田に移住し、代々治郎兵衛を名乗り鍛冶を業とした。周輔は8代目、鍛冶職は二女の直世に婿を迎えて継がせた。酒を好んだが、酔って寝ている間に近所で火災があり、その時父母を介抱できなかったとして以後終世酒を絶った。周輔は明治7年4月4日、77歳で亡くなった。