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郷土の先人・先覚260 多趣味、俳句で名を残す

伊藤酉水子(明治30-昭和55年)

伊藤酉水子氏の写真

明治30(1897)年3月26日、伊藤酉水子は酒田の上内町(現・酒田市本町一丁目周辺)で漆器工芸を業とする伊藤家の長男として生まれた。本名は久作、酉水子は俳号で、俳句のほかに洋画、旅行、野球と多趣味の人であったというが、特に俳句では名の通った人である。

俳句をはじめたのが少年時代からで、酒田商業学校在学の最終学年の時、四国生まれの梶原寿一という教師が担任で「いらか」の俳号を持つ自由律の俳人であった。酉水子はこの先生によって俳句の道を教えられた。

自由律といえば河東碧梧桐(かわひがしへきごどう)で、四国松山に生まれ、松岡子規について俳句を学び、子規と共に俳句革新を起こし、全国を行脚して自由律の句風を宣揚した人である。

当時、碧梧桐の流れを継ぐ人に一碧楼がいた。酉水子は一碧楼に共鳴し、朝日俳壇や彼が主宰する俳誌『海紅』に投句を続けて精進、各地の俳人と交遊した。だが年代と共に一碧楼をはじめ『海紅』で活躍した人たちが故人となってしまった。

その後、酉水子は酒田にあった定律型の「蕉風会」に柿崎孤村らから誘われて入会。多くの先輩や知人らと交わり「焦風会」の中心メンバーとして句作に励んだ。

昭和39年12月、酉水子は句集『虎落笛』(もがり笛)を発刊している。虎落笛とは、寒風が電線や竿に当たって鳴る音が、ちょうど冬天のだだっ児がもがるような感じと、柵・簀垣(すがき)などの雪囲いに吹き付けて、笛のような音を発することをいう。

○合歓の花咲かりひそひそ語る者憎めず

○母が一抱えの盆の草花こぼるることなし

○絵具皿青く干上り十六夜

○春愁や碧く彩る海流図

句集の中から自由律2句、定律型2句を抜いてみた。

人の面倒見もよく、我が家を焦風会の例会場に充て、晩年まで続けたという。

また、彼が師と仰ぐ伊藤後槻の遺句集『後槻』のあとがきに、「私共姉妹が句集編纂にかかるころ、酒田の伊藤酉水子氏によって一碧楼選『海紅』の未収録分を掲載句に加えることが出来、句集は一歩一歩願わしい内容を整えてゆきました」と記されており、師思いの律義な人柄が感じられる。

過日資料借用に伊藤家を訪れた際、酉水子の洋画と、洋画展会場の十全堂前で写した記念写真を拝見、酉水子の俳句以外の趣味も知ることができた。昭和55(1980)年2月15日、83歳で亡くなった。

(筆者・須藤良弘 氏/1992年1月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊藤酉水子(いとう・ゆうすいし)

本名・久作、俳人。少年時代から俳句をはじめ、自由律の河東碧梧桐の流れを継ぐ一碧楼に共鳴。朝日俳壇や俳誌『海紅』に投句を続けて精進した。その後、酒田にあった定律型の「焦風会」に入会、中心メンバーとして句作に励む。句集『虎落笛』(もがり笛)を発刊。俳句のほかに洋画、旅行、野球と多趣味の人だった。昭和55(1980)年2月15日、83歳で亡くなった。

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