文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚269 養蚕の発展に生涯を捧げる

佐藤造酒蔵(明治13-昭和36年)

明治の新政府は貿易の振興を国の重要な政策とし、特に生糸の輸出に努めた。そのため国内の養蚕業も急速に発達した。山形県の養蚕業が発達するにつれて、飽海郡でも養蚕の発展に力を入れるようになった。

水田単作が発達している飽海郡は、内陸地方と比較すると養蚕戸数や生産量は大幅に落ち込むものの、養蚕改良事業や優良桑園に対する積極的な郡費補助などで養蚕業の発展が促進されてきた。その中でも西遊佐村(現・遊佐町)と南平田村(現・酒田市)の発展が最も著しかった。

南平田村の養蚕の発達の中心となったのは、佐藤造酒蔵や山口弘などである。

造酒蔵は明治29年3月、松嶺町に創立された飽海郡立荘内蚕業学校に入学、翌年3月に卒業、同年7月には同26年同町に創設の県立養蚕伝習所を終え、県の蚕種検査員、郡の種蚕共同飼育教師、養蚕巡回教師となり、養蚕業の改良・普及に努めた。同35年、長ノからこの地方に初めて秋蚕を導入した一人である。

造酒蔵自身も桑園、蚕種、養蚕の業にも携わり、郡費の補助を受け、桑園の改良事業を行っている。その努力によって、明治41年に南平田村の植付桑園が34町歩、植付本数が25860本余、栽桑者数は128人に達した。大正9年には南平田村桑園組合長として指導桑園を設置している。

明治44年に第1回庄内蚕糸品評会が開催されたが、飽海蚕友会長である造酒蔵も品種「又昔」の春蚕繭を出品して一等賞を受賞するなど、その後も多くの賞を受けている。

優良生糸の生産には優良蚕種の製造が一番大切であることを若い時から知っていたので、早くから優良品種の製造に取り組み、その普及に努めている。

飼育法の改善も自ら実践し、養蚕経営上最も重要とされている稚蚕飼育の改良では7年間研究に没頭し、ついに箱飼育を完成している。この飼育法は当地方の養蚕家の間で大きな反響を呼び、造酒蔵の指導を請う者が多かった。造酒蔵はそれに対して昼夜の別なく自費で指導に当たっている。

造酒蔵の非常な努力によって、桑葉を摘む労力の節約、蚕の簡易な飼育、蚕作の安定など当地方の養蚕家は多大な恩恵を得た。昭和14年養蚕業の開発に大きな功績があったとして、邸内に頌徳碑が建立された。

(筆者・荘司芳雄 氏/1992年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤造酒蔵(さとう・みきぞう)

養蚕家。明治13年1月、楢橋村(現・酒田市平田地区)佐藤平八・皆の二男として生まれ、同35年南平田村飛鳥に分家。大正2年南平田村南部養蚕組合長、山形県蚕種同業組合代議員、同12年大日本蚕糸会山形支部会商議員、昭和6年全国蚕種業組合連合会議員等多くの役職に就く。長女の文さんの話では、月の明かりの下で働くほど、働いていたという。質素倹約をむねとし、虚飾を嫌った。子供を大事にし、川での投網を趣味とした。昭和36年2月28日に亡くなった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field