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郷土の先人・先覚281 酒田教育界の功労者

五十嵐三作(慶応3-大正15年)

五十嵐三作は5歳ごろに漢詩、漢文を暗唱して人々を驚かせた。優れた才能を持っているだけでなく、非常な努力家であった。就寝時間は生涯一日4時間で、他の時間はひたすら勉学に充てた。

明治22年山形県師範学校を卒業し、その年鶴岡町の朝暘高等尋常小学校訓導となり、一時山形県属となるが、同33年5月酒田尋常高等小学校(大正8年琢成尋常高等小学校となる)に訓導兼校長として赴任。33歳であった。

当時酒田町には中等教育機関としては、明治31設立の酒田町立高等女学校はあったが、男子に対する教育機関はなかった。そこで、五十嵐三作や竹内丑松、服部與惣、和嶋與之助らが中心となって、青年の品性を高め、学識を補習することを目的に、小学校卒業者と中途退学者を対象にした酒田青年夜学会の設立運動を起こした。

設立が認可され、明治34年4月、酒田青年夜学会が開かれた。授業は週2回、3時間ずつ行われ、教員は小学校の教員が主であった。夜学会の会長も兼務した五十嵐自身も教壇に立ち、青年教育に情熱を傾けた。すべて無報酬であった。

夜学会は明治40年に酒田町立商業補習学校へと発展するが、その初代校長も兼務した。さらに大正3年酒田町立商業学校(県立酒田商業高等学校の前身)となるや、その初代校長も兼務した。その間1年余であるが、明治37年酒田第三尋常小学校長も兼任した。

大正5年11月、商業学校の校長を退職したが、同8年には琢成商工補習学校長も兼務し、実業教育の振興に努めている。上級学校に入るだけが能力ではなく、その場になくてはならない人になれ、というのが信条であった。

教育方針として、体育を重視した。特に、健康な身体と強い意志の育成には剣道が不可欠と考えていた。親友であり、屋敷内に剣道道場を開いていた竹内丑松と手を結び、剣道の強化に努めた結果、琢成小学校や商業学校は剣道の名門校として名を高めた。父の遺志ついだ義夫氏は、戦後武道の振興を図るために三道館の建設に尽力している。

酒田中学校の設立にも協力するなど、三十年近くに渡り酒田の教育界で活躍したが、病気のため大正12年5月に琢成尋常高等小学校を退職した。

(筆者・須藤良弘 氏/1992年12月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

五十嵐三作(いがらし・さんさく)

教育者。慶応3年10月10日士族三吉・安代の長男として四ツ興屋新地に生まれる。のち酒田山王堂町に住む。酒田市高見台居住の三男・義夫氏によると、曲がったことを嫌い、うそをつくな、言い訳をするなが信条で、几帳面で厳しかった。子供にも厳しく、筆で日記を書かせ、就寝前に見させた。半面、面倒見がよく、多くの人に学資金を出す。大正15年4月24日亡くなった。

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