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郷土の先人・先覚29

工藤 儀作

工藤儀作氏の写真

湯野浜温泉で旅館を営むかたわら漁業を行い、明治30年代に手操網とか、玉筋角網を考案し、地域の漁業振興、さらに水難救済事業に貢献した人である。

天保10(1839)年に鶴岡市の湯野浜温泉に生まれた。生家は元の岩崎屋旅館である。旅館といっても以前の湯野浜の旅館は、ほとんど漁業をかねていたといわれている。したがって工藤家も同じで、漁業と旅館を兼業していた。

儀作は若いころから湯野浜を、温泉地としてだけではなく、海のそばにある地の利を得て、漁村としても振興、発展させたい、とその開発に情熱を燃やしていた。ことに漁具、漁法の改良に努力を重ねていた。

明治12年ごろ、北海道でやっているサケ漁の漁法を聞きつけ、深く感動。知識を得て建て網の製作に成功、北海道の漁法にしたがってサケ、マス漁を行ってみた。

この新漁法が大当たりして年々大きな利益を上げ、他の漁業者にもこの漁法を公開し、多くの漁民が活用した。

明治30年には手操(てぐり)網漁を考案し、そして翌年には玉筋角網を開発、成功した。手操網はいまの底びき網であり、玉筋角網はいまの巾着(きんちゃく)網の前身で、実用化させた。

この実用化は庄内浜の漁業振興に大きく貢献した。

また、日本海を一望する温泉の裏山の琴平山に儀作の顕彰碑(明治40年建立)があるが、水難救済の仕事にも尽力した。当時は水難事故が多く、儀作も水難救済会加茂救護所(明治34年10月開所)の終身会員(36人)のひとりとして活躍した。

同救護所が開設されてから儀作が亡くなる大正6年までの間だけでも13件、遭難者67人(加茂港史)もあった。特に晩年は総指揮者となって、人命と遭難船の救助に活躍した。

琴平山の顕彰碑には「為人任侠(ひととなりにんきょう)、躯幹魁悟(くかんかいご)、善遊泳(よくゆうえいし)、屡救溺者(しばしばできししゃをすくう)」と顕彰してある、知事表彰も3回ほど受けた。

一方、鉄道が敷かれる前に出羽三山参りする信者の多くは、酒田-新潟間の客船「わだち丸」を利用して、湯野浜に上陸していた。儀作はサン橋を作って信者の便をはかり、湯野浜を三山参りの1拠点として湯野浜を位置付けるのに大きな役割を果たした。

若いころにはウラジオストクにも視察に出かけている。

79歳で亡くなり、湯野浜の乗慶院に埋葬されている。

(1988年5月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

工藤 儀作 (くどう・ぎさく)

本名・鬼吉。天保10年9月9日生まれ。湯野浜で漁業と、温泉宿岩崎屋を経営した。湯野浜の発展は漁業振興で、と漁具の改良、新漁法の考案につとめ、手操網漁、玉筋角網を考案して実用化、漁業の発展に大きな功労があった。また、水難救済会の終身会員として、救助活動にも総指揮者となって活躍した。漁業振興、水難救済の仕事に尽力した功績をたたえて、湯野浜の日本海が一望できる琴平山に顕彰碑が建立され、後世に伝えている。大正6年6月28日没。享年79歳。

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