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郷土の先人・先覚298 戊辰戦争和平工作に尽力した教育者

神保乙平(文化9-明治13)

酒田の豪商・白崎五右衛門一実は、御町医会所十全堂を自分の拘地である荒町に建て、医師に医学の研究と治療に当たらせている。弘化2年、医会所は焼失するが(安政5年に再建)、弘化3(1846)年に一実は、この医会所の隣に旧米沢藩士・神保乙平を招へいした。

神保乙平は一実の意を受け、酒田の子弟を教育する塾を開いた。酒田町に数ある塾の中でも、神保の塾には多くの門弟が集っていた。27年間で、その数は数百名に達している。

門弟の中から、飽海郡誌を編纂した斎藤美澄をはじめとし、鐙谷惣太郎、関伊右衛門、野附友三郎など酒田を代表する多くの大商人、政治家などを輩出している。鵜渡川原村(現・酒田市)出身の著名な教育者・遠藤宗義も「神保先生は酒田における教育上の功労ある方」と述べている。

「荘内紀行」によると、米沢藩士・雲井竜雄が慶応2年6月に酒田に来、粡町(荒町)の神氏を訪問し、丑時(午前二時)ころまで話し合っている。この神氏とは住居の場所からみても、神保乙平のことと思われる。

明治元年、戊辰戦争が始まると、神保乙平の身辺は慌ただしくなった。2月に米沢より酒田に戻って来た神保から酒田の御徒目付が米沢の情勢を聞いている。神保に対する監視の目は厳しかったが、米沢藩士として米沢に復帰した。

東北地方の戊辰戦争は9月に入ると、官軍の激しい攻撃を受けた奥羽越列藩同盟が内部から崩れ、米沢・仙台・山形などの藩が相次いで降伏し、残るは庄内藩だけになった。この場に至り、庄内藩も降伏せざるを得なくなった。

米沢藩から、官軍への謝罪降伏の斡旋をするという連絡があったことから、庄内藩では米沢藩に依頼することにし、中世古才蔵など3名の藩士を派遣した。この支社を船形で待ち構えていたのが神保乙平であった。神保は5日間に渡って3名と行動を共にし、米沢藩家老・千坂太郎左衛門や薩摩藩参謀・黒田了介との間の斡旋の労を取っている。

戦争が終わると神保は酒田へ戻った。医会所普請の時、種々世話したことから医会所の経営も任された。没後間もなくの明治17年酒田町安祥寺境内に「神保先生碑」が建立され、大正2年4月には白崎良弥、竹内権平、白崎善吉、松井権平が催主となり、34回忌と夫人の一回忌を兼ねた供養会が、多くの門弟参列の中で行われた。

(筆者・荘司芳雄 氏/1993年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

神保乙平(じんぼ・おとへい)

儒学者。米沢藩士で儒学者・神保暘谷の子として文化9年米沢に生まれる。諱は忠良、字は子彦、号は竹涯。祖父の神保綱忠蘭室も著名な儒学者で、米沢興譲館督学、白崎五右衛門一実も蘭室に学ぶ。明治3年に医会所経営のことで、蘭方医と漢方医とでは差別をしていると非難される立場にもあった。酒田県に高畠領支配についての意見書も出している。明治13年1月没。

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