文字サイズ変更



  • プリント用表示
  • 通常画面表示

郷土の先人・先覚299 地域の殖産興業に功績を残した剣士

佐藤駿蔵(弘化元-明治28)

本楯村(現・酒田市)の佐藤駿蔵は村会議員の時に、当今の急務は教育・勧業・衛生の三つであると発議し、自ら実践し、地域の産業の振興に大きな功績を残した。

駿蔵は幼少時、亀ケ崎城城代・松平舎人からその才能を見出され、酒田に連れて来られ、舎人のもとで勉強に励んだ。また、鵜渡川原村(現・酒田市)の和田修蔵からは剣道を学び、頭角を現した。その後、江戸に出て腕を磨き、諸国をまわって剣の道を深めた。

万延元年中星川村の佐藤甚九郎の長女・花子と結婚し、養嗣子となった。佐藤家の先祖は、天正年間星川興屋村を開き、星川組の大組頭を務める家柄で、駿蔵も慶応4年に大組頭になった。戊辰戦争時には、農兵隊長として出陣、敵将横手奉行の首を挙げるなどの活躍をしている。

自分の宅地に道場を建て、多くの門弟に剣道を教授したばかりでなく、各地に出向いて剣道の指導を行っている。宮田(現・遊佐町)の石垣兵三郎が剣道道場眞武館を開設した時、松山藩の剣道師範であった須田多賀治と指導にあたっている。菅野谷地字夫須那神社境内に、剣士佐藤駿蔵先生、須田多賀治先生の碑がある。

二宮尊徳を崇拝し、その報徳記を常に愛読した。そのため殖産興業には特に関心が強かった。安田村(現・酒田市)の篤農家・工藤八兵衛と相談し、果樹栽培に力を入れることにした。何度も東京に出掛け、勉強し、外国種のりんごをこの地に植えている。

りんご以外にも、柿や桜桃なども栽培、米作り、養蚕と手広く活動し、酒井調良も度々訪問している。明治21年荘内蚕業研究会の創立委員には調良とともに駿蔵の名もある。政治家齋藤良輔結成の荘内会の会員でもあった。

明治18年飽海郡品評会でりんごと米が二等賞、19年庄内三郡繭糸品評会では生糸が五等賞、26年の大日本農会農産品評会ではりんごが五等賞など、数々の賞を受けている。

重視した衛生の面でも、衛生委員として、伝染病が発生すると、その予防法を説明したり病者には親しく接して薬や食事を指導するなど、日夜奔走し自らもその病に倒れた。

北海道開拓使大判官となった松本十郎は、駿蔵没後の翌29年「佐藤駿蔵先生之行状」を著し、駿蔵の功を漢文で称え、34年7月には酒井調良が「好菓主人調良題」として、この本に序文を献じている。

(筆者・須藤良弘 氏/1993年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

佐藤駿蔵(さとう・しゅんぞう)

農業。弘化元年蕨岡上寺村(現・遊佐町)で正覚坊鳥海豊良の二男として生まれる。名は光正。豪放磊落、義侠心に富み、財がなくとも人のために尽くし、相撲を好んだ。子孫の話によると、農業の振興のために、本楯村では初めて大豊田農事奨励会を組織した。戊辰戦争時と勧業に財を使い、家産を失ったが、大正期に家運は再興した。大川周明の祖母と兄弟で、本楯の自由民権家松元謙吉とも親交があった。明治28年4月3日に亡くなった。

トップページへ前のページへもどる
ページの先頭へ

Loading news. please wait...

株式会社 荘内日報社   本社:〒997-0035 山形県鶴岡市馬場町8-29  (私書箱専用〒997-8691) TEL 0235-22-1480
System construction by S-Field