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郷土の先人・先覚305 「酒田川柳会」の長老 神髄は人情の機微

五十嵐双果(明治42-平成2)

酒田上通り地区の桧物町(現在の二番町周辺)に大きな呉服店があった。明治42年11月、双果はこの地で太兵衛(幼名・太吉)、なほの長男として誕生。名は太一であったが、五十嵐家は代々襲名で、太一も同様に太兵衛を継ぎ6代目となった。双果は川柳のペンネームである。

父・太兵衛は大正末ごろから昭和にかけて助役や市会議員を務め町政、市政に貢献した人であるが、双果は父と異なり、家業を守りながら文筆に親しみ、川柳に情熱をかけた人である。

旧制酒田商業学校時代、国語の教科書に古川柳が出ており、先生の講義が実に楽しくこれが川柳との出合いで、その後、谷脇素文画伯の川柳漫画などに魅せられ、作句を始めたと述べている。

だが、世相が戦時体制にかわると川柳ところでなくなり筆を断ったが、戦後の文芸復興に刺激されて、酒田にも古川柳研究の「だろう会」ができ、彼もその仲間に加わり、やがて「だろう会」が「酒田川柳会」に発展。双果もこの会の長老として多くの作品を残している。

昭和58年には川柳集『歩道橋』(みちのく豆本)を発刊、その表紙絵を千代美夫人が描いており、小さな豆本の中に、大きな夫婦愛が浮かんでいる本である。

・マイホームすぐ建つような案内書

・座布団を抱いて出てくるかくし芸

これは豆本の中にある句で日常よく見られる光景を何の気負いもなくまとめ、読む人に人情の機微と軽いユーモアを感じさせる。これが双果川柳の神髄であろう。

・正論の一人と幹事もてあまし

この句は筆者の手元にある双果直筆の短冊川柳である。

亡くなったが、双果には宮崎に住んでいた弟がいた。この人も双之介の柳号で川柳を作句していたと家人から聞いた。これも兄双果の影響だろう。珍しい兄弟である。趣味は川柳のほか、謡曲、落語、相撲などがあったという。

平成2年6月、享年81歳で没した。

(筆者・荘司芳雄 氏/1994年3月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

五十嵐双果(いからし・そうか)

明治42年生まれ。双果はペンネーム。旧制酒田商業学校時代に川柳と出合い、谷脇素文画伯の川柳漫画などの影響を受け、作句を始める。戦時中は筆を断つが、戦後、酒田の古川柳研究の「だろう会」に入会。昭和58年に川柳集『歩道橋』を発刊するなど、酒田川柳会の長老として活躍した。平成2年6月、81歳で死去した。

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