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郷土の先人・先覚310 助産婦らの養成と救済

桜井晋(慶応元-昭和14)

酒田出身の桜井晋は、地方医学界の発展に多大な功績があった一人である。特に助産婦の養成と「済世」に生涯を捧げている。

医科大学第一病院に産婆養成所が開設されるのは明治23年であるが、飽海郡ではそれより前の明治18年に、75円余の産婆養成補助費を飽海全郡連合町村会予算に計上し、そのうち50円余を弁当代として生徒に支給している。

助産婦養成が本格的になるのは明治20年代で、助産婦として開業するには免許が必要となり、その講習が行われた。桜井は、講師となって活躍している。

明治44年4月、酒田に飽海郡産婆養成所が設置されるが、その開所式で産婆学の沿革、欧米各国の産婆学の現状、日本に死産児の多い原因などを講義している。

飽海郡の助産婦の大部分は、桜井の薫陶を受けた。新技術と新知識を身につけた助産婦たちは、その徳をたたえるために、大正9年酒田町妙法寺境内に飽海郡産婆会の名で「桜井先生報徳碑」を建立している。

碑銘の一節に「産を助け救護し、伝授すること精詳なり」とある。(『酒田地区医師会史』より)

昭和9年、桜井の古稀の祝いが盛大に行われたが、桜井は教え子一人一人に「もえい都るやまと撫子こころしておひしけらせよおのかつとめに」の色紙を贈っている。

桜井の最後の教え子の一人に、弦木澄子さんがいる。桜井の晩年、桜井から産婆学全般を学んでいるが、物静かな人格者であったと語っている。また、助産婦としての功労で勲五等瑞宝章など多くの賞を受賞した西塚ふぢさんの手記などによると、桜井は産婦人医として高名で、他県から診療を乞う者も多かった。慈愛博愛の志厚く、貧者には無料で治療、金品まで恵み、当時人々から差別を受けていた病者も温かく受け入れたという。

仏教の研究や社会事業などを目的に、桜井は酒田の医師・佐藤清治らと明治42年酒田仏教青年会を組織、のち酒田仏教会となった。桜井はこの会に基金を出し、「仏教と文芸」など多くの講演をしている。

一期ではあるが酒田町町会議員にもなり、伝染病院に新式の消毒器具を設置したり、上水道新設が急務であることなど主張している。

(筆者・須藤良弘 氏/1994年6月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

桜井晋(さくらい・すすむ)

産婦人科医。慶応元年、酒田今町に生まれる。先祖は医学・本草学で著名な渡部三折。三折は酒田の桜井家に婿入りして桜井姓に。代々医家で晋は6代目。明治13年京都に学び、23年酒田で開業。温厚で礼節正しく慈愛深かったことから、人々の尊敬と信頼が大であった。酒田十全堂社長、飽海郡医師会長、県医師会副会長、県方面委員などを務める。昭和14年9月27日死去。

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