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郷土の先人・先覚323 農業機械化へ発明重ねる

斎藤長一(明治31-昭和58)

昭和12年5月、酒田市荒瀬町の愛友社社長・斎藤長一は、仙台において帝国発明協会より表彰された。斎藤長一が発明改良した脱穀機に優等賞が、穀粒選別機に良等賞が贈られている。

大正3年農学校を特待生で卒業すると、自宅で農業に従事し、同6年には北平田村農業補習学校の助教諭となっている。さらに、地域に農友会や庄内農芸研究会を組織し、自ら農芸研究会の主幹となって、農事の指導と農業の改良研究に努めた。大正12年には「庄内ニ於ケル稲作ノ研究」を編集出版している。

農業に従事し、指導している間に、農具の不完全なことを痛感した。不完全な農具が農民に過重な労働を強いるものと考え、労働の軽減を図るために、農機具の発明改良に没頭することになった。

大正12年一般農具の研究改良に志し、寒冷地向きの水田除草機は実用新案となった。同14年には動力用脱穀機も実用新案として登録され、斎藤式自動脱穀機として発売された。

昭和12年受賞の脱穀機は大正12年から研究をはじめて5年間、穀粒選別機は昭和7年から3年間の研究の成果である。研究のために数万円の家産を費消したといわれている。

大正14年には酒田町荒瀬町に愛友社農具研究所を設立し、主に自動脱穀機の研究をした。同年摂政宮の行啓の際は、山形県農事試験場でその作業をご覧にいれた。昭和3年同所に株式会社愛友社を創立し、農機具の研究開発・製造に一層の拍車がかかった。

自動大豆粕粉砕機、畜力利用除草機、播種機、籾摺機、籾穀かまどなど多くの農機具が開発され、その製品は朝鮮・台湾・満州方面にも広まった。昭和6年自動脱穀機を「ロボット脱穀機」と改称し、全国農具共進会で銀牌を受賞している。

商工省は同7年発明奨励金として一千円、同10年三千円を交付している。昭和12年現在で農具の専売特許8件、出願中10件、実用新案品が40余件、出願中が10余件に達している。

愛友社は同13年資本金15万円の東北振興酒田農機株式会社に発展、中平田村浜田(現・酒田市)に工場を建設した。その後、回転脱穀機、暗渠排水管などの研究を続け、生涯、農業改善に努めた。

(筆者・須藤良弘 氏/1995年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤長一(さいとう・ちょういち)

発明家・農業。明治31年漆曽根村(現・酒田市)の大農家に生まれる。北平田尋常高等小学校、県立庄内農学校をそれぞれ優等で卒業。大正7年、県立自治講習所終了。子孫の話によると、研究の理解者は祖父だった。無欲で、賞金が入っても次の研究資金にしたという。特許も農業の発達に必要であれば公開し、没するまで研究意欲旺盛であった。弟は画家の斎藤長三。昭和58年9月12日死去。

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