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郷土の先人・先覚325 医道に尽くした文人医師

池田宏道(文政12-明治31)

酒田市寿町の池田氏宅に「尋芳軒」と大きく書かれた扁額がある。これには光緒戊子仲春、晏波が梅溪詞翁のために書いたものと記されている。

晏波は清国の書家で学者であり、明治21年酒田に来遊している。その際、晏波は酒田の名所12景を漢詞に作って残している。「尋芳軒」とは医師で儒学者でもあった池田宏道のことで、梅谷とも号した。光緒戊子は明治21年で、晏波が酒田来遊の折、同じ学問に志す宏道を知り、贈ったものと思われる。

宏道の父は酒田出身の医師で、若い時、越後松岡に住み、その地で結婚し、宏道が生まれている。間もなく父は酒田に帰るが、宏道は母方姓の山田を名乗り、その地に残った。

弘化元(1844)年、宏道は父の元に帰り、池田姓に復したが、父は嘉永4(1851)年47歳で死去している。

宏道は父の死の前後、江戸で進藤源泉に医学を学び、さらに漢学も学んでいる。帰郷後も著名な学者である伊藤鳳山のもとで、同じ医師仲間の小松周輔や時岡淳徳などと儒学の勉強に励んでいる。そのため、儒学・詩歌・俳諧・囲碁など幅広い教養を身につけていた。

明治維新後、官軍の占領下にあった酒田の持地院などに仮の軍事病院が設置されたが、明治2年官軍の引き揚げにより、病院の薬品などは貧窮者救済用として、宏道ら3人に払い下げている。同3年、種痘普及の功労者として、山形県酒田出張所より宏道には銭七百疋の賞賜があった。

酒田の医会所での会読講習の際、塾生を取り立て、心を用いて世話したことで、明治3年学業講習検査兼客医試験掛という重職に任じられ、医師の開業試験などに当たっている。同12年コレラ発生の時は昼夜にわたり消毒や施療したことで、翌年山形県より3両を下賜、表彰されている。

文化面での活躍も著しく、明治2年6月の学而館開校の際には「学而館開校喜賦」と題する漢詩を披露している。酒田妙法寺の住職で俳人としても著名な夏静との交流も密で、両者の色紙が池田家にあり、社寺には俳額が奉じられている。

酒田正徳寺にある夏静追悼吟の俳額に、下山の号で、「花ははな、また一入の若葉かな」と献じている。

門人たちに敬愛され、酒田林昌寺境内に門人たちによって建立された「池田宏道先生墓」がある。

(筆者・須藤良弘 氏/1995年9月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

池田宏道(いけだ・こうどう)

医師。梅谷・梅岑・尋芳軒・下山と号す。文政12年生まれ、幼名・宝定。父は池田鳳岳。自宅で儒学を講じ、詩会を開き、酒を愛し、人々の信頼が厚かった。碁を打ちながら明治31年9月29日に死去した。

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