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郷土の先人・先覚332 石像彫刻に才能発揮

斎藤多司(明治37-昭和43)

戦中戦後、腕の立つ石工として斎藤多司の名は知られていた。特に仏像彫刻が得意であったといわれ、方々に建立されている地蔵菩薩の中でも、多司の刻した地蔵尊の柔和な顔立ちは群を抜いていたと、当時を知る人たちは今でも語っている。

酒田市の高砂灯台わきに現在、足にすがりつく愛児の頭にそっと右手を乗せ、優しく語りかけているような表情の慈母観音が立っている。この観音石像は多司の代表作といわれ、彼と慈母観音を結ぶゆかしい逸話がある。かつて大浜海岸は海水浴場としてにぎわったが、同時に子供の水死事故が多く、心を痛めた。これを聞いた蓮尚寺住職らの発案で、海岸近くに供養堂を建て、慈母観音を安置することになり、これを進んで引き受けたのが多司であった。戦争中は海軍勤務で、太平洋下で散った戦友と、水死した子供たちの供養になればという気持ちからだったという。

その後、秋田県由利郡小砂川付近で適当な石材をやっと探し当て、同地内で作業を始め、3カ月間精魂を打ち込んだのみの音が絶えなかったと、当時の新聞が報じている。その甲斐あって満願百日目に見事な慈母観音が完成、海路で酒田に運ばれ、蓮尚寺にて開眼供養のあと、大浜海岸近くの供養堂に安置。来賓の市長をはじめ関係者が参列して除幕式をあげたのが昭和27年である。その席上、多司に感謝状と記念品が贈呈されている。

同34年、大浜海岸の開発が進む中で、現在の高砂灯台のそばに移転されたが、観音像には信仰の献花が絶えず、心温まるゆかしさを覚える。しかし、日本海特有の季節風で観音像も彫り師の名も次第に風化しつつある。だが、水平線に沈む見事な夕景に照らされた観音菩薩の温顔と、彫り師の心が調和した美しさが胸をうつ。

市内本楯の正伝寺に平和観音と命名された聖観音が建立されている。身丈は4メートル余で、しかも継ぎ目のない一体の石材で出来ており、庄内地方では珍しい石仏である。その背部には「平和観音、胎内安置信心者御芳名巻物、昭和三十四年二月」と記した銅板がかん入され、下部に石彫斎多と刻印されている。彼の名作の一つである。

この観音は発願者、寄付者、彫り師の仏心で出来たものであろう。「庄内平和観音第五四番」に指定されている。巡礼者も多いといわれ、鈴の音を響かせ平和への祈りを捧げている。そして多司の技能も光っている。

(筆者・荘司芳雄 氏/1996年4月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤多司(さいとう・たじ)

石工。酒田町上台町(現・酒田市日吉町付近)で石工業を営む父・亀治の四男として明治37年に誕生する。のち浜畑町(現・栄町付近)に移転して、同業を続けている父の下で修業を積む。

幼いころから活発で負けず嫌いであったという。その気骨が石工として腕に磨きをかけ、特に石像彫刻に才を発揮したのだろう。趣味は海軍相撲4段の有段者で、水泳も特技だったという。勝気な性格が偲ばれる。昭和43年、多くの石像仏を残し64歳で亡くなった。

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