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郷土の先人・先覚336 教育界から市政へ

伊東善三(明治42-平成元)

教職に就いて教育界で活躍した伊東善三は、退職後一転して酒田市役所に籍を置き、行政面でも大きく貢献した人である。

大正4年、鶴岡朝暘第四尋常小学校入学に始まり、同13年山形県師範学校本科第一部に入学、4年間学び、昭和10年に再び同校の学生となり、専攻科第三類(歴史・地理科)に1年間在学した。その後の教員歴は39年。そのうち、校長在任19年9カ月で、半分は校長を勤めており、学校経営の手腕と信望の厚かったことを物語っている。

研究心の旺盛と多趣味で、特に短歌に造詣が深く、著書『私語雑想』には、折々の出来事を短歌に表現して、書き留めている。

・言の葉は少なけれども卒く子等は輝ける瞳もて吾に答えり

・退職を決意せしその日より過ぎゆく日々の惜しく貴し

一首目は学窓を去る子供たちの輝ける瞳を教師の愛情でとらえ、二首目は退職を前にした心の動揺と教育にかけた情熱が感じ取れる。

・自らのすべての力注ぎきし過ぎし日偲び悔ゆることなし

これは昭和53年12月に収入役を退任したときの一首で、大任を全力投球で果たした満足感を「悔ゆることなし」で結んでいる。

昭和10年、『教育界』で「郷土教育」のテーマで、郷土の各分野にわたる教育の重要性を取り上げた。善三はこのとき「最上川河口付近の鮭漁業」を取り上げており、内容は漁業権移動、網主と漁場変遷、漁獲期と漁獲高、鮭網と種類と構造などの貴重な論文を発表している。

収入役退任後も多くの会長などに推され、地区内の老人クラブ「西野百寿会」の会長まで引き受けて、会の融和と会員の健康・文化などに意を尽くし、名会長といわれた。

また、母思いの人で、前掲の著書の中にも「母性愛」と題した一節がある。「人間は幾つになっても、ほのぼのとぬくもる母のふところの感触は忘れられないものである。そのぬくもりの中で子供は健やかに、のびのび育つのです」と、教育者らしく記している。

高ぶらず謙譲さで人に接する人柄はどこから生まれ出たものか、これについて、「吉川英治氏座右銘に思う」として次の歌を作っている。

・我以外皆我が師なりと銘したる巨匠の悟り味わい憶う

彼はこの歌を自己の心として教育に捧げたのであろう。

(筆者・荘司芳雄 氏/1996年7月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

伊東善三(いとう・ぜんぞう)

明治42年8月、鶴岡の新斎部(現・鶴岡市新海町)で生まれた。三男。士族の家庭だったので、儒教を基本とする道義的家風で育ったという。

成人して教師となり、鶴岡市朝暘第五尋常小学校が最初の赴任校であった。その後、酒田に籍をかえ同地区の学校で教鞭をとる。趣味が多く特に「子東」と号した能書家でもあった。また、名門・伊東家一族が集う「あずま会」の会長として、会の結束に力を尽くした。没年は平成元年10月。82歳で死去した。

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