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郷土の先人・先覚339 賢治に共鳴、信念貫く

鳥海宗晴(明治39-平成8)

神官の家に生まれて教職に就き、生涯を子供の教育に尽くし、戦中・戦後の統制された画一的な教育の中で、闊達に伸びる子供の芽を育て、教育に情熱をかけた人であった。

山形師範在学中に恩師を中心に、童話の研究と普及を図る目的で「金の馬子供の会」を組織し、活動を始めている。後年、童話研究で有名な久留島武彦、安倍季雄の両先生の指導で「日本童話協会」の会員となり、彼の教育に大きく役立っている。

師範卒業は昭和2年で、最初の赴任校は酒田の亀ケ崎小学校であった。その後、酒田・飽海の小中学校を歴任している。その間、幾多の苦難の道があったというがそれにも屈せず、子供たちの中に飛び込んで教育に当たり、その実をあげている。

そのころ新庄の松田甚次郎著の『土に叫ぶ』を読み感動、鳥越にある氏の最上共働村塾を訪ね、その縁で塾生となり、詩人であり農村指導者として著名な花巻の宮沢賢治を知った。

「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…」の詩のごとく、楽しく、明るく、たくましく、生き生きと暮らせる平和な理想郷を目指し生涯をかける宮沢賢治のひたむきな教えに魅せられ、また松田の実践活動に感動し、彼の人生に大きな転機をもたらす指針となった。

昭和14年4月、鳥海宗晴ら3人の名で「荘内宮沢賢治の会」を酒田の光丘文庫で発会している。だが、こうした活動とは裏腹に、世相は日に日に戦時色に染まっていった。こうした暗い時代の中で自分の著書『宮沢賢治のイーハトーブの世界』に次のように書き残している。

「…幸い私の部落には大きな社殿を持つ大物忌神社があります。それで夕食前の時間夕日が西に傾くころ、石段に腰掛けていっぱい集まってきた子供達に楽しい童話、明るい童話、たくましい童話を語ってやりました。宮沢賢治の『風の又三郎』の童話を3回に分けて語りました。(中略)話が終わった後、子供たちと一緒に何とも言われない充実感を味わいました。(以下略)」

教師生活は白井新田小学校長で終わり、のち遊佐幼稚園長を務め、その間も講演活動などで活躍している。

薫陶を受けた宮沢賢治は37歳で没し、生誕100年に当たる平成8年、改めてブームをよんでいる。宗晴もこれに合わせたかのごとく平成8年8月、90歳で死去した。

(筆者・荘司芳雄 氏/1996年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

鳥海宗晴(とりのうみ・むねはる)

明治39(1906)年、蕨岡字城出(現・遊佐町)の坊で生まれた。鳥海蕨岡修験三三坊の北之坊16代目を継ぐ。

かつては鳥海山参りの道者でにぎわった上蕨岡も往年の面影はなく、北之坊近くにはかつての国幣中社大物忌神社と竜頭寺がわずかに当時をしのばせている。教師生活の中で賢治、甚次郎に共鳴して明治から平成まで信念を貫き通し、平成8年に死去した。

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