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郷土の先人・先覚340 故郷に多くの作品寄贈

斎藤長三(明治43-平成6)

昭和31年の暮れ、斎藤長三は新潟県から酒田までの海岸沿いを歩き、画題を探している。激しい吹雪の時は、キャンパスもすえられないので、その風景を8本のフィルムに収めた。翌32年の正月に次のような感想を述べている。

「北国の冬の厳しさに胸打たれるものがあり、今年は是非ともこの風景をものにしたいと考えています。鼠ケ関から南の方の農村には北壁の面白い家が建ち並び大いに興味をそそられましたし、白雪と対称的な灰色の空もいいと思いました」と。後の作品ではあるが「冬の果樹園」などに、庄内浜の冬景色の雰囲気が漂っている。

昭和7年、東京高等工芸学校の図案科を卒業しているが、前から油絵をやっていた。それで、在学中から独立美術展に出品している。同9年に独立美術展で入賞し、翌10年の第5回独立展でD賞を受賞した。

昭和14年、長三は東京数寄屋橋の日動画廊で個展を開いている。その時、作品についての批評では、シュールリアリズムからロマン派に一歩踏み込んだ新人として注目されている。同15年の第10回独立展では岡田賞を受賞し、同16年には独立美術協会の会員となっている。

美術展で入賞したり、個展を開いたとはいえ、「絵では食えない」苦労を味わっている。そのために、絵本を描いたりし、昭和17年には教師にもなっている。

苦労の続く中で、技術の練磨に没頭した。職人的な芸術家の道を歩み、独自の画風を築きあげた。長三の優れた技法を支えているものは、庄内的な詩情と童心であると評されている。昭和14年作「雲の鳥海山」、同19年作「秋、収穫」などの初期の作品にも、それがよく表れているように思われる。

しかし、長三自身は農村的な詩情をもたらす甘さを常に反省しており、ピカソの政治性についても関心を示していたといわれている。

故郷を人一倍愛していた。昭和29年に北平田中学校が統合で廃校となる時、卒業生から記念としての絵を頼まれると快諾し、潤筆料も受け取らず、「小鳩の風景」の大作を贈った。

長三没後の平成6年8月、夫人が夫の遺志をくみ、6号「山居倉庫」から30号の大作「山寺」など72点を酒田市に寄贈し、酒田市民美術館建設の一つのきっかけともなっている。

(筆者・須藤良弘 氏/1996年11月掲載)
※原稿中の地名や年などは紙面掲載当時のものです。

プロフィール

斎藤長三(さいとう・ちょうぞう)

画家。明治43年、北平田村漆曽根(現・酒田市)の大農家・斎藤長三郎家に生まれる。県立酒田中学校在学中から油絵を始めた。武蔵野美術大学教授や日本大学芸術学部講師などを歴任。長三の画業を載せるため訪ねてきた写真家・土門拳との対面について、意欲と威圧に感動したと述べている。昭和37年デッサン集「村落」が酒田みちのく豆本の会から刊行。『婦人の友』の表紙絵も制作。農機具の発明家として著名な斎藤長一は兄。平成6年1月1日死去。

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